山口儀三郎
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日[1] - 1972年(昭和47年)12月13日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等[2]。 経歴広島県出身[1]。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し[3]、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官[4]。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し[2]、第一遣外艦隊司令部附兼参謀[2]、「日進」分隊長[2]、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任[2]。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し[2]、海軍大学校甲種第24期学生となる[2]。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し[2]、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった[2]。以後、第1艦隊参謀兼連合艦隊参謀[2]、海軍兵学校生徒隊監事兼教官などを歴任した[2]。 1933年(昭和8年)11月15日、海軍大佐進級と同時に横須賀鎮守府附となり[2]、同年12月20日に海軍通信学校教頭に着任[2]。1935年(昭和10年)11月に「大井」艦長に転じ[2]、1936年(昭和11年)12月に海軍省教育局第1課長[2]、1938年(昭和13年)11月に「伊勢」艦長[2]、1939年(昭和14年)11月1日に兼「扶桑」艦長と歴任した[2]。同年11月25日、海軍少将進級と同時に海軍通信学校長に着任[2]。1941年(昭和16年)11月に佐世保鎮守府参謀長兼通信部長に転じ[2]、1942年(昭和17年)12月には第10特別根拠地隊司令官に就任し[2]、シンガポールに出征[1]。同地周辺の守備、警備に任じた[1]。1943年(昭和18年)11月1日、海軍中将に進級して11月25日に軍令部出仕となり[2]、1944年(昭和19年)1月に旅順方面特別根拠地隊司令官に着任[2]。1945年(昭和20年)4月20日に鎮海警備府司令長官に就任し終戦を迎え[1][2]、11月15日に海軍省出仕となり[2]、11月30日に予備役に編入された[2]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。 年譜
脚注
参考文献
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