商法商法(しょうほう)
日本法
商法(しょうほう、英語: Commercial Code[2]、明治32年3月9日法律第48号)は、商人の営業、商行為その他商事に関する日本の法律である。 1899年(明治32年)3月9日に公布された。所管官庁は、法務省(民事局商事課)である。 商事に関して、商法に規定がない場合には慣習法である商慣習に従い、商慣習にも規定がない場合には同じく法務省が所管する民法が適用される。 商法の分野日本の商法は関連する法令を含め、一般に下記のような分類がなされる。現在独立している法律(会社法、保険法、手形法および小切手法)もかつては本法の一部を構成していた。
構成本法は、1899年(明治32年)の制定以降、大規模、小規模の改正を重ねて現在に至っている。
t,s制定時は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編手形、第5編海商であった。第4編は手形法制定で第1章から第3章までが、小切手法制定で第4章が削除され、長らくの間は第1編総則、第2編会社、第3編商行為、第4編海商となった。その後、会社法制定に伴って会社に関する規定の削除等の整備が行われ、現在の編構成となる。さらに、保険法制定で第2編第10章が削除された。 実質的意義での商法実質的意義での商法は、私法の一般法である民法の特別法として位置づけられるが、その法領域については、議論がある。 当初は経済上の商、すなわち生産者と消費者との間に介在して有形財貨の転換の媒介をする営利行為(固有の商)を対象とすると把握されてきた。しかし、経済の発達により、このような媒介行為の必要を満たすための補助的な行為(銀行取引、物品運送、損害保険など。補助商)やこれらと類似の経営方法によるもの(出版、旅客運送など。第三種の商)についても、商法の対象になるとされるようになった。 このような事情があることから、上記の行為を統一的に把握するため、どのような点に着目して実質的意義の商法を把握すべきかが問題となる。
民商二法統一論民商二法統一論とは、民法典と商法典とを一元化すべきであるという主張である。民法から独立した商法体系を構築することは不可能ないし不要であるとする見解を前提としている。日本では明治の梅謙次郎以来その歴史は長いが、あまり支持されていない。 歴史旧商法江戸時代には幕府が儒教的な重農抑商政策を進めたこと、諸藩が自藩の産業保護を優先した事によって、商業の全国的レベルでの発展は抑え込まれた。現代的な会社形態の組織が生まれる事はなく、商業のほとんどは個人または同族経営による商店のみが存在した。そのため、商取引は商慣習に従って行われた。それでも大坂などの大都市を中心に高度な為替システムの成立を見るなど、その水準は決して低くはなかった。 明治に入ると、近代的な会社・企業組織などの考えが日本にも伝わった。政府も欧米の巨大な資本に対抗するには日本でも企業を起こしていく必要性があると考えた。そこで士農工商的な職業の制限を廃して、会社設立を容認する政策を採った。だが、会社の設立のルールが存在しなかった(先行していた国立銀行条例(1872年)が模範例とされたが、あくまでもモデルでしかなかった)ため、その組織形態もバラバラでありすぐに倒産する会社も少なくなかった。また為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まった(1882年に「為替手形約束手形条例」が暫定的に定められた)。 そこで1881年4月、外務省嘱託であったドイツの法学者で経済学者でもあったヘルマン・ロエスレルに商法起草を依頼したのである。彼はドイツの商法を基(破産法などはフランスによる)にした草案を1884年1月に完成させた。この草案を基にして1890年に成立したのが、旧商法と称される「商法」(明治23年法律32号)である。この商法は「商ノ通則」「海商」「破産」の3編から構成されていた。これを審議した元老院では、施行を翌年1月からと定めた。 商法典論争ところが、この年の秋から帝国議会が開かれるようになると、民法典論争の煽りを受けて新しい商法に対する反対論が噴出した。そこには法学者のみならず、商工会議所(当時、東京では「商工会」、大阪・神戸では「商法会議所」と呼ばれていた)に属する商工業者からの抗議もあった。 主な意見として、一つは民法と商法とは密接な関係にあるにもかかわらず、民法はフランス系で商法はドイツ系で法体系が違っており、双方の間に重複が多すぎるという指摘である。特に「契約作成能力」や「委任契約」に至っては2つの法律の間に矛盾さえ生じていた。もう一つはロエスレルが日本の商慣習を「曖昧で前近代的で全く考慮に値しない」と評して慣習法としての価値を全く認めようとしなかったことがある。穂積陳重らが商法はそもそも商慣習の集成に由来するのに現地の商慣習を無視した商法はありえないと主張した事もあって、実際の商法では商慣習を認めたものの、低い地位に置かれていた。 だが、同じ商工会議所でも海外貿易の盛んな大阪では早期施行を要求する嘆願が、逆に東京では施行延期を求める嘆願が出されるなど、複雑な展開を見せた。結局、商法の施行は2年間(後に期限は更新された)延期されることになった。だが、後に東西の商工会議所の間で日本に具体的な規定がない会社法や破産法については暫定的に商法を施行すべきであるという意見の合意を見た事もあって、1893年7月に会社・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、1898年7月に施行期限延長手続の中止によって全面施行に至る。もっとも新しい商法草案が既に帝国議会において審議中でその成立が時間の問題だったために敢えて再度の延長手続は取られなかったというのが実情とも言われている(実際、旧商法は1年弱の期間しか施行されなかった)。 1893年3月、梅謙次郎・岡野敬次郎・田部芳によってドイツ商法を基本にした草案が出され、当時の伊藤博文首相を長とする法典調査会において審議され、梅と穂積陳重・富井政章によって商法法案として纏められた。1899年3月に新しい商法が公布され、3か月後に旧商法(破産法は旧商法をそのまま転用)に代わって施行されることになった。主な改正点としては、会社設立を許可制から準則主義にし事実上の自由化を行ったこと、商慣習の地位を引き上げて商法にない規定は商慣習法を援用するようにしたこと、会社の合併の規定を設けたことなどが挙げられる。 主な改正その後も頻繁に改正が行われている。その主な点を挙げる。
アメリカ法米国では統一商法典というものが、実質的に米国全土の商法典として機能している[4]。 米国というのは、United States Of Americaという名称でも分かるように、いくつものstate(くに、邦、州)が集まって成立している連邦国家であり、成立の基本は、ひとつひとつのstateのほうであり、米国の法律の基本は州法である。各state(州)の州政府が制定する州法であり、米国の50州がそれぞれ異なる法律を持っている[4]。連邦法というものも確かにありはするが[注 2] あくまで基本は州法なのである[4]。ところが、商売・ビジネスというのは州をまたいでも行われるものであり、商取引上の問題が複数の州にまたがる場合には何らかの米国全体として法的な統制をとる必要がある[4]。そこで、連邦法の適用対象外となっていて連邦法では一律に規制し得ない分野について、米国法を統一する目的で作成されたのが Uniform Commercial Code(略す場合は「U.C.C.」)(統一商法典)というものである[4]。(米国のものと明示し、他国のものと区別するために「米国統一商法典」と呼ぶこともある。) このU.C.Cによって、連邦法を制定するのではなく、「モデル法案」を作成しており、それを各州に採択させるという方法が採用されているのである[4]。そして、このU.C.C.は現在ほぼ全州でそのまま採択されているので、実質的に米国での「連邦商事法」のような役割を果たしている[4]。 歴史1942年、American Law Institute(短縮形:ALI、米国法律協会)と(Uniform Law Commission 統一州法委員会(ULC)が共同事業として、U.C.C.の作成に着手し、1951年に最終草案を作成し、1952年に最初のU.C.C.を発表した[4]。 現在では、米国すべての州でU.C.C.が採択されている(例外はせいぜいルイジアナ州で、同州は部分採択の形をとった)。よって、このU.C.C.は実質的には、米国の「連邦商事法」のような役割を果たしていると言えるわけである[4]。 内容、構成内容、構成は以下の通り[4]。
細部が幾度にもわたり改正された経緯がある。 →「統一商事法典」も参照
脚注注釈出典関連項目外部リンク |