函館水電函館水電株式会社(はこだてすいでん)は、北海道函館市にかつてあった電力会社、軌道事業者(路面電車運営)、路線バス事業者である。現在、電力事業は北海道電力、軌道事業は函館市企業局交通部、路線バス事業は函館バスに引き継がれている。 なお、ここでは社名変更後の帝国電力についても述べる。 概要大沼を水源とした水力発電事業を目的として設立された渡島水電株式会社(創立時の社長は阿部興人で北海道セメント<現在の太平洋セメント上磯工場>の経営者の一人)が園田実徳が経営する電力会社函館電燈所を40万円(当時)で買収し、社名を函館水電株式会社と改めた後、函館馬車鉄道を買収し[1][2]、電化をして北海道初の路面電車を運行させた。この路面電車は北海道遺産の一つに選ばれている。現存する日本最古のコンクリート製電柱(函館市末広町)を建てた電力会社でもある。弁天町にて運送業を営んでいた高木荘治よりバス事業を譲り受け、函館乗合自動車合資会社を設立してバス事業にも参入、のちに帝国電力株式会社に社名変更し、旭自動車株式会社を合併、さらにその後富士製紙の電力部門が前身の大日本電力株式会社[3]に合併した。 大正時代には周辺の電力会社の取得や投資なども行い、八雲水電(八雲電気)を合併、森水電(森水力電気)、松前水電(松前水力電気)を競争入札で取得、道南電気、戸井水電(傍系会社として経営)に投資。早川電力と山中電燈にも投資、旭自動車にも投資した[4][5]。 歴史前史
函館水電
帝国電力
大日本電力への合併後、1942年(昭和17年)4月に配電統制令によって北海道配電(北海道電力の前身)が設立され、北海道内の配電事業は同社へと統合された。一方、電車・バス事業はその子会社の道南電気株式会社(のちの道南電気軌道株式会社[17])が経営を引き継いでいたが、函館市への譲渡は監督官庁により、1942年夏ごろから陸運統制令に基づき、渡島海岸鉄道・大沼電鉄などと統合して一社とするようとの指導があり困難をきわめた[18]。最終的に1943年(昭和18年)11月1日に事業を引き渡すことで決着した[19]。 電力事業発電設備水力発電所大沼の豊富な水を利用して発電し、函館へ送電する計画を立てていたが、農民の反対に遭い、予定を変えて銚子口から折戸川沿いに大沼第一発電所を建設したのが最初である[20]
以上の発電所は1965年(昭和40年)2月3日に廃止された[24]。
火力発電所
変電設備
八雲電気八雲では大橋正太郎らが発起人となり、会社組織による電気事業経営の準備が進められて設立したのが八雲電気株式会社である。砂蘭部川の遊楽部川落ち口に25馬力、4次式水車で出力18kVA、供給電力1404kWの小規模な水力発電所を設置して供給した。需要増大に応えるべく砂蘭部川上流に発電所を設けた。1917年(大正6年)には村営化の話もあったが買収額で否決され、経営不振に陥ったこともあり、後に函館水電へ合併することになった。 軌道事業東京馬車鉄道(東京都交通局の前身)と小田原馬車鉄道(小田急箱根の前身)の技術指導により開業した馬車鉄道である亀函馬車鉄道(後に函館馬車鉄道と改称)のレールの幅(軌間という)を引き継いで電化したので1372mmという珍しい軌間になっている。これは現在も引き継いている。この軌間を採用した日本で現存する路線は他に京王電鉄(京王井の頭線を除く)、都営地下鉄新宿線、都電荒川線、東急世田谷線しかない。なお電化に際して、電車に耐用できるようにレールは1mあたり30kgのものに交換され、強化された[27]。 車庫新川車庫火災では再建されたが、函館大火では再建されなかった。
車両
バス事業函館乗合自動車高木荘治が行っていた事業を継承して函館乗合自動車合資会社を設立し運営した。函館乗合自動車合資会社はのちに帝国電力に吸収されている[31]。 旭自動車旭自動車株式会社も吸収している[12]。 松岡陸三による旭自動車は1918年(大正7年)10月10日に日本初の専用自動車道路(現・国道278号の一部、漁火通り)を開通させて松風町6番地-根崎間6kmを4台で営業した。昭和5年、若松町117番より根崎に路線変更する。下海岸自動車との接続もしていた。 下海岸自動車は昭和3年創立で、昭和7年に椴法華-湯川間を全線開通させている。 車庫昭和13年12月9日、深堀町99番地に建設していた深堀町バス車庫が完成した。昭和53年に売却された。 スポーツ・レジャー事業社会人野球球団の函館太洋倶楽部本拠地として柏野野球場の開設運営、湯川遊園地の運営を行っていた。湯川遊園地は函館大火後は運営できず放置されていた。 柏野野球場駒場車庫の裏にあった野球場。1921年(大正10年)開設。敷地1万2000坪、収容2000人のスタンドも設置した。函館太洋倶楽部が利用。試合や練習を見る人が電車を使うことを目論んだ[32]。 湯川遊園地1920年(大正9年)、旅館経営者の岩見次郎が湯川地区に娯楽場「新世界」を開設し動物舎や演芸館、竜宮門などを設置していた[33]。しかし、不況により娯楽場「新世界」は1925年(大正14年)に閉鎖となり、その後、函館水電が経営する湯の川遊園地が昭和初期まで営業していた[33]。 水電事業市営化問題将来の需要増に対応するために傍系会社であった戸井電気へ札幌水力電気株式会社と一緒に吸収合併予定であったが、安定経営を望む地域住民の意見を受けて函館の市議協議会が反対し、函館市による事業買収交渉が始まる。 戸井電気とは1924年(大正13年)開業の函館水電より電力の供給を受けて消費者に提供する小さな電灯会社である。この会社の資本金を1900万円まで増資して函館水電と札幌水力電気を吸収合併させようとの計画であった。 函館水電は函館市との報償契約は合併後も尊重すると回答したものの函館市民の世論は将来市が事業買収することを困難にするものとして合併反対の流れで水電合併反対連盟を結成して合併を阻止しようとした。
郊外電車計画函館水電自体は郊外に路面電車の進出をする考えは終始なかったといわれている[34]。 函館電気軌道函館市内の民間資金で函館電気軌道が設立され、1927年(昭和2年)に上磯軌道(亀田村万年橋から上磯町富川間)の敷設請願が行われた。結局、1931年(昭和6年)7月に函館水電に特許された[35]。並行鉄道路線は国鉄上磯軽便線、上磯線。延伸により国鉄江差線、北海道旅客鉄道江差線を経て現在は道南いさりび鉄道の一部区間。 大野電軌直接の関係は無いが、「大野電軌株式会社」(発起人代表中村長八郎)による函館市海岸町から北斗市字市渡(現在地名)までの路面電車の計画があった。レールの幅(軌間)は函館水電と同じ1372mmで、接続を念頭に置いていた[36]。延長10マイル15チェーン、建設費は60万円を予定していた。この計画は1928年(昭和3年)6月20日に鉄道省及び内務省より特許が下りている[37]。昭和4年に丸山誠吾に譲渡され、路面電車から鉄道に変更され(レール幅は1067mm)、大函急行電鉄計画になる。 戸井電気軌道戸井電気軌道が1927年(昭和2年)12月31日に銭亀沢村大字根崎村(当時)から戸井村大字小安村字釜谷(当時)まで軌道敷設を申請していたが、1931年(昭和6年)1月に却下されている。軌間は函館水電と同じ1372mmであった[38]。並行鉄道路線は国鉄戸井線(未成線)。津軽要塞の頁も参照。 脚注
参考文献
関連項目
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