伊達宗城
伊達 宗城(だて むねなり)は、江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族。位階は従一位、勲等は勲一等。江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主だったが、維新後に議定、外国事務総督などを務めて外交担当者となった。また民部卿・大蔵卿、清国への欽差全権大臣などを歴任した。 生涯文政元年(1818年)、大身旗本・山口直勝の次男(祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった)として江戸にて誕生した。母は蒔田広朝の娘。幼名を亀三郎と称した。文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光(伊達村候の孫)の養子となったが、翌文政12年(1829年)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれない藩主・宗紀の養子となる。宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。 藩政時代天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。 福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らと共に隠居謹慎を命じられた。 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を幕府が支払うことに反対している。その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。 慶応2年(1866年)には、イギリス公使ハリー・パークスがプリンセス・ロイヤル(英語版)で宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流している[1]。 明治維新以後慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし慶応4年(明治元年)1月2日(1868年1月26日)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・奥羽列藩同盟寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。 明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清の全権李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。 明治14年(1881年)には、世界周遊の一環で日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウアを接待し、それに対する返礼として勲章を授与されている。カラカウアより宗城に授与された勲章は、現在は宇和島伊達文化保存会[2]に所蔵。 宇和島伊達家は明治17年(1884年)、華族令によって伯爵を授けられた。明治24年(1891年)、養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によって侯爵に陞爵された。明治25年(1892年)、児島惟謙の司法官弄花事件に際しては、反児島派から、児島の元主君の立場として、辞職を勧める役回りを任された。宗城は、依頼者(反児島派かつ政府側の人間)には、「会って説得したが、児島は涙ながらに拒否した」と書き送った。しかし、実際には児島には会っておらず、逆に児島宛に同じ書簡を同封して、留任を迫る旨の書簡を送った。同年、東京の今戸屋敷で病没した。享年75。 評価
年譜※日付=1872年(明治5年)までは旧暦
栄典
系譜
系図実際の親子関係のみを示す。
蒸気船の建造宗城は、村田蔵六を200石で招聘し、オランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、さらに黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。肝心の蒸気機関は、城下にいた提灯屋の嘉蔵(のちの前原巧山)を抜擢して、製作を命じる。藩を挙げての試行錯誤の末、実験的な蒸気船が完成した。黒船来航からわずか3年後のことである。一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけで作った蒸気船の第1号であった。 関連書籍
登場作品
脚註
関連項目外部リンク
|