二松學舍大学附属高等学校
二松學舍大学附属高等学校(にしょうがくしゃだいがくふぞくこうとうがっこう)は、東京都千代田区九段南二丁目にある私立高等学校。二松學舍大学の附属学校である。 概要学校法人二松學舍は、日本を代表する漢学者で、明治法曹界の重鎮としてもその名をはせた三島中洲が東京府麹町区一番町43番地(現在の東京都千代田区三番町)の私邸内に1877年(明治10年)に創設した漢学塾を起源とする学校である。淵源は、1861年に三島中洲が開いた漢学塾虎口渓舍まで遡る。虎口渓舍では、明治政府の出仕の命による東京上京まで11年間にわたって子弟の教育にあたり、学徒は12藩に及びつねに60人から70人に及んだという。その後、中洲は明治維新後の西洋思想一辺倒に傾きはじめた世の中を危惧し、師である山田方谷の死去に伴い生前の助言に従って、日本固有の儒教道徳の確立をめざし、1877年(明治10年)10月に漢学塾・二松學舍を創立した。不変の節操・堅貞を象徴する松樹が、庭上に二本あったこと、韓愈の藍田縣丞廳壁記に「對樹二松、曰哦其間」とあり、学舎として後の世まで続くことを願い二松學舍と命名された。1948年(昭和23年)に二松學舍高等学校が設置される。
建学の精神(舎訓)漢学塾・二松學舍創立当時の日本は、明治維新後の混乱期。欧米の文化が次々と入り込んでくる中、新政府発足に向けた動きも着々と進んでいた。明治維新から10年、西洋文化の摂取に汲々としている状況を憂えた中洲が考えたのは、日本人としてのあるべき姿。「東洋の文化を学ぶことこそが、我が国本来の姿を知りうることになる」と主張。東洋学の確立と新時代を担う国家有為の人々の育成を目指した。そこに掲げたものは、「知行合一」と「温故知新」という精神であり、「己を修め人を治め一世に有用なる人物を養成するに在り(自ら考え行動できる能力を鍛え、社会のために貢献する人物を養成する)」という教育理念であった。中洲は、日本という国が開かれる時代に、自国を正しく理解し、母国語を正しく表現することができる、真の国際人の養成を目指した。 高校・大学・大学院を有する教育機関へと発展した二松學舍は、この理念と140年以上に及ぶ伝統を受け継ぎ、日本の未来を担う人材の育成に取り組む。 教育理念日本に根ざした道徳心を基に、国際化、高度情報化などが進む中で、自分で考え、判断し、行動する幅広い分野で活躍できる人物を育成する。 象徴校章「松かさ」の組み合わせは、生徒・教職員・父母が三位一体となり、協に育っていく(教育は協育なり)という教育方針の象徴である。 また論語の「歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知るなり」の章句の、「困難に遭遇した時自己の真価を発揮できる人間」の完成を目指すという意義がこめられている。 校訓
校歌作詞 校歌制定委員会 作曲 東京音楽学校 校旗
制服スクールカラー歴史略歴二松學舍は、三島中洲が東京府麹町区一番町43番地(現・東京都千代田区三番町)の私邸内に1877年(明治10年)に創設した漢学塾を起源とし、1949年(昭和24年)に新制大学として二松學舍大学が設置されるよりも前の1948年(昭和23年)に二松學舍高等学校が設置された。 年表
校風高校生活「三兎(学習・部活・行事)」を追う生徒の「心を育て 学力を伸ばす」学校である。 学科は普通科のみで、通常の進学コース、特進コース、理系コース、体育コース(野球部のみ)の4コースが設置されている。特進コースは、国公立大学を含む難関大学の現役合格を目指すコースであり、ハイレベルな授業内容で進められ、勉強合宿、夏期・冬期講習、演習科目等の特別なプログラムが実施されている。部活動は、体育部および学芸部を合わせて30以上の部活動が存在する。 主な部活動硬式野球部
ダンス部
最寄駅出身有名人
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