久松氏(ひさまつし)は、江戸時代の長崎の地役人。
久松家は、長崎の出島築造の出資者・出島町人の久松新兵衛の家系で[1]、『長崎名家略譜』[2]によれば「西浜町に住す、高十五人扶持、受用銀十五貫目、屋敷千三百八十四坪、除税地」という長崎町年寄の名家。先祖は武州大串を領して源頼朝に属したが、4代目が肥前国に移って大村の旗下に属した[3]。実子が無いため、讃岐国丸亀の城主・生駒帯刀の末子の堀尾作十郎を養子にした。作十郎にも子ができなかったため長崎町年寄・高木作右衛門の子を養子とし、それが名を改め、初代久松善兵衛となる[4]。
西浜町(長崎市銅座町・浜町のあたり)にあった屋敷[5]はかつて長崎町年寄筆頭の高木彦右衛門のものだったが、深堀事件によって高木家が断絶した後、久松家の屋敷となった[6]。
本家
- 初代 - 久松善兵衛忠辰[4]
- 養子、高木作右衛門宗利(4代目)の三男
- 元禄10年(1697年)、常行司に就任。同12年(1699年)、町年寄に就任。
- 宝永6年(1709年)、隠居。
- 2代目 - 松永市右衛門忠昭[4]
- 養子、高島四郎兵衛茂村(3代目)の次男
- 宝永6年、町年寄に就任。同7年(1710年)、奉行と同姓のため、松永と改姓[7]。
- 享保7年(1722年)7月22日、没。
- 3代目 - 久松善兵衛茂政[4]
- 養子、高島四郎兵衛茂程(4代目)の次男
- 享保4年(1719年)、家を継ぐ。同11年(1726年)、町年寄見習に就任。同12年(1727年)、久松姓に復する。同14年(1729年)、町年寄に就任。
- 延享4年(1747年)9月18日、没。
- 4代目 - 久松喜兵衛忠廉[4]
- 養子、高木作右衛門忠栄(7代目)の末男
- 延享4年、町年寄に就任。
- 宝暦4年(1754年)4月19日、没。
- 5代目 - 久松善兵衛忠衹[4]
- 3代目善兵衛茂政の次男。別名半右衛門[8]
- 宝暦4年、町年寄見習に就任。同8年(1758年)、町年寄に就任。
- 天明5年(1785年)、「御奉公筋出精」により、帯刀を許された上、長崎会所調役に任命[8][9]。
- 寛政元年(1789年)、権限一部剥奪[10]。同2年(1790年)9月、隠居[11]。同12年(1800年)4月19日、没。
- 6代目 - 久松善兵衛定寿[4]
- 寛政元年(1789年)10月、町年寄見習に就任。同2年(1790年)10月、町年寄に就任。
- 享和元年(1801年)、隠居。
- 天保12年(1841年)5月4日、没。
- 7代目 - 久松善兵衛忠恒[4]
- 養子、後藤五郎左衛門貞郁(長崎町年寄・後藤家10代目)の次男
- 寛政12年(1800年)、町年寄見習に就任。
- 享和元年(1801年)2月、町年寄に就任。
- 文化12年(1815年)11月、隠居。
- 天保13年(1842年)12月29日、没。
- 8代目 - 久松碩次郎定碩[12]
- 養子、高島四郎兵衛茂紀(9代目)の次男、高島秋帆の次兄。詳細は久松碩次郎を参照。
- 9代目 - 久松新兵衛定益[13]
- 7代目善兵衛忠恒の四男
- 弘化3年(1846年)7月25日、高島秋帆の疑獄事件に連座して、50日押込となる[14]。同4年(1847年)、没。
- 10代目 - 久松喜兵衛忠恒[13]
- 8代目碩次郎定碩の子
- 文久2年(1862年)、没。享年31[15]。
- 11代目 - 久松若三郎[4]
- 文久3年(1863年)、町年寄に就任。
分家
- 初代 - 久松土岐太郎忠真[16]
- 久松善兵衛茂政(本家3代目)の三男
- 明和3年(1766年)3月、町年寄末席に任じられる。
- 天明7年(1787年)正月、一代町年寄に就任。
- 寛政元年(1789年)7月、隠居。同年11月29日、没。
- 2代目 - 久松平三郎忠倫[16]
- 寛政元年、町年寄末席見習に就任。同4年(1792年)11月、町年寄末席に就任。同12年(1800年)正月、一代町年寄に就任。
- 享和3年(1803年)2月18日、没。
- 3代目 - 久松嘉兵衛忠豊[16]
- 享和3年4月、町年寄末席に就任。
- 文政5年(1822年)7月、町年寄に就任。以後、世襲となる。
- 4代目 - 久松金之助忠篤[16]
- 養子、久留米藩士・今井清右衛門の次男
- 天保2年(1831年)、町年寄見習に就任。同4年(1833年)、退職。
- 5代目 - 久松蜂次郎忠清[16]
- 養子、薬師寺久左衛門種茂の三男
- 天保5年(1834年)5月、町年寄に就任。同8年(1837年)、退職[17]。
- 6代目 - 久松土岐太郎忠功[13][16]
- 養子、高島秋帆の次男。詳細は久松土岐太郎を参照。
- 7代目 - 久松土岐太郎忠誨[13][16]
- 養子、久松新兵衛定益(本家9代目)の次男。詳細は久松寬三郞を参照。
脚注
- ^ 「出島の築造とその出資者」広瀬隆著 『文明開化は長崎から』上巻 集英社、110-112頁。
- ^ 大正15年刊『長崎叢書』所収、長崎史談会編
- ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、66頁。
- ^ a b c d e f g h i 「久松家」簱先好紀著 『長崎地役人総覧』 長崎文献社、46-47頁。
- ^ 長崎古地図集『享和二年 肥州長崎図』 長崎文献社。
- ^ 『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社 、161頁。
- ^ 当時の長崎奉行は、久松定持。
- ^ a b 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書、126頁。
- ^ 鈴木康子著 『長崎奉行の研究』 思文閣出版、299頁。
- ^ 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書、128頁。
- ^ 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書、130頁。
- ^ 広瀬隆著 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、123頁。江越弘人著 『<<トピックスで読む>>長崎の歴史』 弦書房、222,242頁。有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、35、66頁。石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、50頁。
- ^ a b c d 江越弘人著 『<<トピックスで読む>>長崎の歴史』 弦書房、242頁。
- ^ 有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、167頁。
- ^ 儒学者荒瀬桑陽の『崎陽談叢』より。同書では「久松善兵衛忠愃」となっている(石山滋夫 『評伝 高島秋帆』 葦書房 、169-170頁)。
- ^ a b c d e f g 「久松家(別家)」簱先好紀著 『長崎地役人総覧』 長崎文献社、47-48頁。
- ^ 『<<トピックスで読む>>長崎の歴史』(242頁)では天保5年。
参考文献