薬師寺久左衛門薬師寺 久左衛門(やくしじ きゅうざえもん、生年不詳 - 万治元年(1658年)[1])は、江戸時代初期の長崎の砲術家、地役人。諱は種広[1]。 生涯薬師寺家は豊後の大名・大友氏の家臣で、筑前東郷を治めていた[1][2]。大友氏の滅亡後、祖父の下野守種長らと共に長崎に移住し、磨屋町(とぎやまち)の乙名となった[1][2][3]。 父・藤左衛門の鉄砲術を相伝し、後に諸流派を研究して鍛錬流(鍛練流)とし、その開祖となった(鍛錬流は後に自覚流と改める)[1]。寛永14年(1637年)の島原の乱には、子の宇右衛門種永と共に従軍[1][2]。 屋敷は磨屋町にあり、敷地は1,174坪[2]。磨屋町の乙名は、久左衛門の死後は峰家が世襲[2]。 元禄10年(1697年)、高木彦右衛門貞親が唐蘭商売元締に任命されるに伴い、外町常行司を務めていた種永の子・又三郎種政が町年寄となる[1][4][5]。以後、薬師寺家は、長崎の町年寄を務めることになる。 延宝元年(1673年)に長崎奉行所が管理する大小19挺の石火矢を預けられる[6]。文化5年(1808年)のフェートン号事件の際には、長崎奉行の松平康英に、武器蔵の石火矢・大筒を所定の場所に配置するよう命じられている[7]。 脚注
参考文献
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