久松土岐太郎久松 土岐太郎(ひさまつ ときたろう、生没年不詳)は、江戸時代の長崎の地役人、砲術家。長崎町年寄の久松家の当主には土岐太郎を名乗る者は、他に初代土岐太郎忠真と7代目土岐太郎忠誨(久松寬三郞)がいるが、この項では主に久松家(分家)6代目土岐太郎忠功について扱う。 土岐太郎忠功号は適斎[1]。寬三郞、忠功。高島秋帆の次男[2][3][4]で、長崎の町年寄の久松家の当主。高島浅五郎(高島秋帆の長男)の弟で、久松碩次郎(高島秋帆の次兄)の甥。 高島流砲術、および荻野流砲術を修める[2][3]。長崎の遠見番[5]の白江竜吉[6]に砲術を教えており[7]、長崎砲術の中興といわれるが、高島秋帆の疑獄事件により高島流砲術は一時中絶する[2][3]。 『日本人名大事典』第5巻[3]および『評伝 高島秋帆』[8]、『高島秋帆 人物叢書』[1]では久松家の跡を継いだとあるが、忠功が当主となったのは、分家の久松土岐太郎家である[9]。 略歴弘化4年(1847年)6月、長崎町年寄に就任[3][4][9]。 嘉永元年(1848年)正月、官命により長崎の地役人に荻野流砲術を教える[2][3]。 安政4年(1857年)9月、病気により職を辞する[3][4][9]。 脚注
参考文献
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