ラテンアメリカ
ラテンアメリカ(西: Latinoamérica, América Latina, 葡: América Latina, 英: Latin America, 仏: Amérique latine)は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立国及び非独立地域を指す総称である[1]。 ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。 多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられた。 図にあるようにラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南アメリカ大陸のガイアナ・スリナムをふくまない。また中南米と呼称される場合もあるが、これは図に合う正確な表現ではない[2]。 語源ラテンアメリカの名称は1856年、ヌエバ・グラナダ共和国(現在のコロンビア)の首都ボゴタで生まれた文人ホセ・マリア・トーレス=カイセードによって初めて用いられた[3][4]。 1836年、メキシコからテキサスが独立し、さらに1848年、米墨戦争によってアメリカ合衆国に敗れ、メキシコは国土の半分を失った。1856年にはニカラグアの国内政治の混乱に乗じてアメリカ人侵略者ウィリアム・ウォーカーがニカラグアの大統領となるなど、アメリカ合衆国の膨張の前に、アメリカ大陸スペイン語圏の諸国は、存続の危機にさらされていた[4]。パリに在住していたイスパノアメリカ人たちはこうした事態に祖国がアメリカ合衆国に吸収されるという危惧を抱き始め、アングロサクソン列強の脅威に抵抗すべく運動を始めた。 当時、彼らは自分たちの国家群の呼称としてアメリカ・エスパニョーラを用いることが多かったが[4]、文明の中心であったフランスと一体であることを示す名称としてラサ・ラティノアメリカーナ、アメリカ・ラティーナ・サホーナ・エ・インディヘナといった呼称が論説などで用いられるようになり、カイセードが1856年9月26日、旅行先のヴェネツィアで書いた詩『二つのアメリカ』においてアメリカ・ラティーナという言葉が初めて用いられた[5]。この言葉は次第に新聞や雑誌、公文書へと浸透していき、フランス語においても1861年ごろよりラメリク・ラティーヌ(L'Amérique latine)の呼称が確認出来るようになる。英語のラテンアメリカの名称がスペイン語、フランス語のどちらから移入されたのかは定かではないが、この新しい名称の浸透はナポレオン3世によって積極的に行われ、次第にラテンアメリカという名称が世界に広がっていった。 しかし、フランス主導によるこうした帝国主義的拡大にスペインの知識人たちは大いに憤慨し、イスパノアメリカの名称を主張し続け、今日に至ってもスペインは公式の文書ではラテンアメリカの名称を拒否している[6]。 定義今日、単にラテンアメリカと称した場合は「メキシコ以南の北米大陸、カリブ海地域全域、南アメリカ大陸全域の3地域とその周辺の島々」を指す[7](広義のラテンアメリカ)。 1960年頃まではラテン文化の伝統を引き継ぐ20の国[注釈 1]に限ってラテンアメリカと呼称されてきた。1962年以降、旧イギリス領から12、旧オランダ領から1の新しい独立国が興り、国際連合などでラテンアメリカ地域に含んだ形で言及されるようになり、ラテンアメリカの定義は曖昧さを孕むことになった[6]。近年ではこうした新興独立国の立場を考慮し、カリブ海地域と呼称し、「ラテンアメリカとカリブ海」などと表現する傾向が強まっている[7]。この場合のラテンアメリカという呼称は「ラテン的文化を保有する国と地域」を指すことになる(狭義のラテンアメリカ)。 ラテンアメリカの定義においては「広義のラテンアメリカ」と「狭義のラテンアメリカ」とを、文脈で判断し理解することが必要となっている。 日本においては「広義のラテンアメリカ」を総称して中南米と表すことが一般化している[7]。この言葉はラテン性を巡る諸問題を回避できる点で便利な言葉ではあるが、忠実に外国語に訳した場合に「セントラル・アンド・サウスアメリカ」となってしまい、メキシコやカリブ海地域が含まれないという別の問題を持っていると中川文雄は指摘している[7]。稀に喇(ラ)と表記されることもある。 カナダのケベック州はラテン系言語であるフランス語が第一言語であるが、他のラテンアメリカ諸国と地理的・経済的に大きく離れていることもあって、同地をラテンアメリカに含めることは少ない。 構成ラテンアメリカは33の独立国およびいくつかの非独立地域で構成される。本一覧の国名表記は『ラテン・アメリカを知る事典』の各国便覧に倣う[8]。 独立国非独立地域歴史ラテンアメリカ史においての一般的な時代区分は先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代の3つに大別される[9]。 先コロンブス時代1492年にイタリアの探検家クリストファー・コロンブスがカリブ海地域に到達した時点を起点として、それ以前を総称したのが先コロンブス時代で、数千年に渡る長い期間を通じて北アメリカ大陸のメソアメリカ地域と、南アメリカ大陸のアンデス地域を中心として様々な文化が開花していた。これらはまとめて古代文明と称されるが、3世紀から9世紀に至る最も華麗な文化が開花した時代を古典期としてその前後を先古典期、後古典期と、あるいはそれ以上に細分化することもある[10]。 植民地時代1492年以降の植民地時代は、スペインとポルトガルの両国による絶対王権によって統治された約300年間を指す。ラテンアメリカ地域の領有権の正当性は教皇によって与えられたものであったが、これを無視したオランダ、イギリス、フランス、デンマーク、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国はカリブ海域の多くの島々や大陸の一部を占領・支配した。 独立国家の時代→「イスパノアメリカ独立戦争」を参照
19世紀初頭から現在に至る期間は独立国家の時代とされる。ナポレオン戦争でナポレオンが敗北して以降の1814年9月1日から1815年6月9日まで開催されたウィーン会議では1792年より以前の状態に戻すことと勢力均衡が原則とされた[11]。ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す[12]。 ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、さらに1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した[12]。 スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政のフェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴが1820年にスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された[12]。他方で、1810年代から1820年代を通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった。
1823年12月アメリカ合衆国モンロー大統領は、独立したラテンアメリカ諸国に対して神聖同盟諸国が干渉すること、および西半球におけるヨーロッパの植民地拡大へ反対すると表明した[13]。さらに、1824年にペルー、1825年ボリビア(アルト・ペルー)が独立した。 また、1821年にはオスマン帝国からの独立を目指してギリシャ独立戦争が始まっている。露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認め、列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。 1830年のフランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスは真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、さらに各国での1848年革命によってウィーン体制は崩壊した[12]。 20世紀1929年の世界恐慌によって寡頭支配勢力の弱体化が起こり、ラテンアメリカ諸国は新しい政治・経済秩序を模索し始めた。民主化の波に飲み込まれ、それまで無視されてきた大衆と呼ばれる人々が政治に大きな影響を与え始めるようになっていった。 ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体2011年11月24日、中南米各国で学生による「教育のための行進」が行われた。この行進はチリ大学生連合とコロンビアの全国学生拡大会議が呼びかけたもので、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、エルサルバドル、パラグアイなどでもデモや集会が行われた[14]。直後の12月2日、植民地を除く全33ヶ国により、従前のラ米・カリブ首脳会議を発展させた「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」が結成された。 他地域との関係日本との関係日本の海外直接投資総額の比率は1995年時点で12.6%となっている[15]。また、日本の総貿易額におけるラテンアメリカの比重は1997年時点で4.7%となっている[15]。内容は主としてラテンアメリカ諸国の天然資源を輸入し、日本から製造業製品を輸出するというものが多い。 人的視点からは、第二次世界大戦以前の1893年のグアテマラへの移民をはじめとして、榎本武揚の提唱により1897年にメキシコへ渡り、アカコヤグアに入植した「榎本移民」[16]をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まり[17]、その後、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ[18][19][20]、ウルグアイ[18][19][20]、チリへの移民も盛んに行われた。第二次世界大戦後には、1956年にボリビアと移住協定を締結し、1959年にパラグアイと移住協定を締結し、1963年にアルゼンチンと移住協定を締結し、1963年にブラジルと移住・植民協定を締結するなどラテンアメリカに移民を送り出した。その為、世界に散らばる日系人のうち、3分の2はラテンアメリカに集中している[21]。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている[22]。 文化的視点からは、アジア以外で初めて平等条約を締結したメキシコ修好通商条約100周年であった1988年を皮切りに、1997年のチリ修好通商条約100周年、メキシコ移民100周年、1998年のアルゼンチン修好通商条約100周年、1999年のペルー移民100周年など各国の記念行事が相次ぎ、それを契機に要人や文化人の相互訪問が活発となった[15]。 ラテンアメリカに対する政府開発援助(ODA)は全体の10%程度で推移し、特に国民所得の低い中米諸国や、日系移民の多いブラジル、ペルー、ボリビア、パラグアイなどへの資金協力や技術協力が目立つ。また、エルサルバドル、ハイチ、ペルーなどへの政治目的を持った援助や、環境問題改善や麻薬対策といった地球的問題への取り組みも近年では増えてきている[15]。 統計国連『世界人口年鑑』(1996)によるラテンアメリカの人口推移。
社会→詳細は「ラテンアメリカの社会」を参照
人類学者ミッシェル・D・オリアンは、ラテンアメリカの社会を文化的生活面での共通項に着目し、インディオ社会、メスティーソ社会、アフロ・アメリカ社会、ヨーロッパ的アメリカ社会、移民社会の5つの社会に分類している[23]。 これらは国あるいは地域によって独自性が認められつつもいくつかの点で共通した社会を形成しており、お互いに干渉しあいながら今日の複雑なラテンアメリカ社会を構成している。 植民地時代以来、ラテンアメリカは、ほとんどのヨーロッパ諸国だけでなく、日本を含む多くのアフリカ人やアジア人からも、世界中からの移民の中心であり、民族的に日本はラテンアメリカとより関連しています. ヨーロッパやアメリカよりも。 人種の混合は、ラテンアメリカ地域の建設において非常に重要であったため、この地域には大きな民族グループはなく、多くのラテンアメリカ人は主にヨーロッパ人または先住民 (ラテンアメリカインディアン) に由来します。 世界最大の日系人口を抱えるペルーとブラジルは、事実上の「日本の兄弟」と言えます。 人種→詳細は「ラテンアメリカ人」を参照
宗教ラテンアメリカの宗教構成
ラテンアメリカにおけるキリスト教諸派構成
(出典:Franz Damen,Bolivia/Belgica、2006「世界とラテンアメリカの宗教概観」(原稔. "ラテンアメリカの宗教変遷グロバリゼーションによる 40 年間の宗教勢力変化." 東洋哲学研究所紀要 22 (2006): 59-80.)) 文化→詳細は「ラテンアメリカの文化」を参照
文学→詳細は「ラテンアメリカ文学」を参照
音楽→詳細は「ラテン音楽」を参照
美術→詳細は「ラテンアメリカの美術」を参照
映画→詳細は「ラテンアメリカの映画」を参照
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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