マルヌ県
マルヌ県(マルヌけん、le département de la Marne)は、フランスのグラン・テスト地域圏の県である。県名は、マルヌ川(la rivière de la Marne)に由来する。県都はシャロン・アン・シャンパーニュ、最大都市はランスである。 地理面積は 8 162 km²であり、フランス・メトロポリテーヌで7番目に面積が広い。マルヌ県はヴィルヌーヴ・ラ・リオンヌからトロワ=フォンテーヌ=ラベまで全長116km、クロミシーからクレールまで全長が97kmある。 県は、ランス郡・シャロン・アン・シャンパーニュ郡・エペルネー郡・ヴィトリー・ル・フランソワ郡の4つの地方に分けられる。中央部はプレーヌ・シャンプノワーズかシャンパーニュ・クレユーズと呼ばれ、ほとんどを穀物畑が占めている。西部はワイン生産で有名なヴィニョブル・ド・シャンパーニュである。西部には県で最も標高が高いモン・シナイ(283m)がある。東部は低い丘陵が連なる風景が広がる、アルゴンヌとペルトワである。 人口統計マルヌ県は単独でシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏総人口の約40%を占めている。数十年かけて人口が減少している地域圏全体とは異なり、マルヌ県人口は1975年以降増加し続けているが、近年は56万人前後で停滞している。
参照元:SPLAF[1]と2006年はINSEE[2]、2007年はINSEE[3]。 主要都市
歴史フランス革命中の1790年3月4日に、旧シャンパーニュの一部から新設された。県設置の構想としては、人々が馬の背に乗って郡庁所在地まで2日で往復できる距離を目指した。1800年2月17日、知事職が設置された。ブルジョワ・ド・ジュサン(fr)が初代マルヌ県知事となり、38年間在職した。 ワーテルローの戦いで第七次対仏大同盟が勝利すると、1815年6月から1818年11月まで県はオーストリア軍に占領されていた。 1870年の普仏戦争では、アルザス=ロレーヌでのフランス軍敗退のために、ドイツ軍がマルヌ県に達しフランス軍を分断した。1870年8月25日、パサヴァン=タン=アルゴンヌにて49人のギャルド・モビル(fr、国土防衛のため軍を補助し、内部秩序を維持する目的で召集された人々)が虐殺され、さらに100人が負傷した。この悲劇の目撃者たちはプロイセン人たちによる『野蛮な光景』について述べている[4]。マクマオンと彼の軍隊はシャロン=アン=シャンパーニュに退却した。彼らはボーモン=アン=アルゴンヌ攻撃中に身柄を拘束された。その後彼らは1870年9月2日にナポレオン3世とともにアルデンヌ県のスダンで捕虜となった[5]。 第一次世界大戦前、軍の防衛はディジョン、ラングル、ラン、ラ・フェールの各コミューンとともにフランス北東部第2の防衛ラインとして県内で確立されていた。 マルヌ県は多くの軍隊が通過するのを経験した。第一次マルヌ会戦、第一次シャンパーニュ会戦(fr)、第二次シャンパーニュ会戦(fr)、第三次シャンパーニュ会戦(fr)、第四次シャンパーニュ会戦(fr)、第二次マルヌ会戦(fr)、シュマン・ド・ダーム会戦(fr)である。 こうした紛争は特にマルヌ県に深刻な後遺症を残した。戦後残ったマルヌ県のゾーン・ルージュ(fr、戦争で物理的に損傷した土地の総称)は、フランス全土に生じたゾーン・ルージュの約1/7に相当した。ゾーン・ルージュの土壌はやせて、土地のほとんどは汚染されて森林で覆われることになり、別の活動は禁止されてしまった。マルヌ県に24 556ヘクタールあったゾーン・ルージュは、1921年には2185ヘクタールに減少した。多くのコミューンが再開墾こそが唯一の方法だと考えたのである。1921年当時、1538ヘクタールが『国の管理下』で保存されていた。ペルテ・レ・ユルリュのように、マルヌ県内で7つのコミューンが消滅した。 政治近年、マルヌ県は常に国政選挙で右派候補を第一位に選んでいる(しかし2004年欧州議会議員選挙と2010年フランス地方選ではフランス社会党が第一党となった)。6人の国会議員と3人の元老院議員は中道またはUMPの党員である。地方行政では、マルヌ県評議会議長はUMPのルネ=ポール・サヴァリーである。2001年から2008年まで、右派が県主要5都市をリードしていた。しかし2008年フランス地方選挙では、ヴィトリー=ル=フランソワで左派候補が、さらに県内で最も人口の多いランスでも左派候補が当選した。一方、マルヌ県の農村にある多くのコミューンでは右派の首長が多い。 ギャラリー
脚注出典
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