ピエール・ウォメ
ピエール・ヌレンド・ウォメ(Pierre Nlend Womé, 1979年3月26日 - )は、カメルーン・ドゥアラ出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションは、左サイドバック及び左サイドハーフ。 来歴クラブ母国のフォガペ・ヤウンデとキャノン・ヤウンデの下部組織を経て、1996年夏にヴィチェンツァ・カルチョでプロキャリアを始め、2002年8月にイングランド1部のフラムFCへ移籍する[1]までの約7シーズンをイタリアで過ごした。ASローマに移籍金20億リラで加入し、1999年にはボローニャFCへ共同保有・移籍金60億リラで加入[2]。また、ボローニャからローマへフランチェスコ・アントニオーリ, アメデオ・マンゴーネ, アレッサンドロ・リナルディがそれぞれ100億リラ, 130億リラ, 60億リラで移籍した。その後、2000年6月にボローニャは僅か100万リラで買い取った。イングランドのフラムでは、2003年2月のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦(3-0)で移籍後初得点にして唯一となる得点を挙げた[3]。 フラム退団後はRCDエスパニョール、インテルナツィオナーレ・ミラノでプレーした後、ドイツのヴェルダー・ブレーメンへ移籍した。この結果、欧州の4大リーグ全てでプレーした史上5人目の選手となった(前例はフロリン・ラドチョウ、ゲオルゲ・ポペスク、アベル・シャヴィエル、ヨン・ダール・トマソン)。2008年夏に1.FCケルンに移籍し[4]、2010年6月30日に退団した。 2012年2月24日に母国のコトンスポール・ガルアに加入するも[5]、3月16日にキャノン・ヤウンデに4ヶ月の契約で移籍[6]。母国復帰の理由について、ロナウジーニョがやり直すためブラジルに復帰したのを見て、自身もその思いに駆られたと明かした[7]。 代表2000年に行われたシドニーオリンピック決勝でのPK戦で5人目のキッカーとして成功し、金メダル獲得に貢献した。 2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選の最終節・エジプト戦は、この試合に勝利しなければ2006 FIFAワールドカップ出場を逃すという重要な試合だったが、1-1で迎えたロスタイムにPKを得るもポストに当てて外してしまった。これにサポーターが憤怒し、ヤウンデにあるウォメの自宅が襲われ、愛車ベンツが破壊された。たった1回のPK失敗が大騒動を引き起こした。(詳細についてはヤウンデの悲劇を参照) それから数日後の記者会見で、"あの場面で会話はなかったが、サミュエル・エトオや主将のリゴベール・ソングですら、あのPKを蹴りたがらなかった。だが、自分はPKキッカーのリストに名を連ねていたから、あそこに向かった"と語り、またサポーターから身の危険を感じていることも明かした[8]。 2007年3月19日に代表引退を表明した[9]が、2009年7月の2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選で復帰[10]。それを最後に暫く遠ざかっていたが、2012年10月に久しぶりに招集された[10]。 代表歴出場大会試合数
脚注
外部リンク
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