ハインリヒ・フォン・シーボルトハインリヒ・フォン・シーボルト(ドイツ語: Heinrich von Siebold, 1852年7月21日 - 1908年8月11日)は、オーストリアの外交官・考古学者。 父はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトで、研究分野において父との区別のため「小シーボルト」とも呼ばれる。兄は外交官で、井上馨外務卿の秘書となったアレクサンダー・フォン・シーボルト、異母姉に日本人女性として初の産婦人科医となる楠本イネがいる。ドイツ出身であるが、後に外交官としての功績が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得る。 ハインリッヒを主人公とした舞台『シーボルト父子伝〜蒼い目のサムライ』(演出木村ひさし、主演/脚本鳳恵弥、音楽パッパラー河合爆風スランプ)が2020年より毎年公演されている。 経歴誕生1852年にプロイセン王国領ライン地方のボッパルトで父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと母ヘレーネ・フォン・ガーゲルンの次男として生まれる。2度の来日を終え、3度目の来日を準備する父の研究資料整理を手伝ったことで、ハインリヒは日本に強い興味と憧れを覚える。 来日父の死により、ハインリヒの親子揃っての来日は叶わなかったが、父が幕府外交顧問として再来日した際に同行した兄のアレクサンダーが父の帰国後も日本での職務についており、徳川昭武使節団に同行し一時帰国したため、その兄の再来日に同行して1869年(明治2年)初来日を果たす。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝い中に学んだことを活かし様々な研究活動を始める。 勤務先となったオーストリア=ハンガリー帝国公使館では通訳、書記官を経て代理公使を務め、後にその功績を称えられて同国の国籍を得る。1891年には同国の男爵位を賜る[1]。 日本が初の正式参加となったウィーン万国博覧会では、政府の依頼により兄とともに出品の選定に関わり、同万博には通訳としても帯同、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収める。その際に選定に共に関わった町田久成、蜷川式胤らとはその後も親交を続けた。 彼らとは好古仲間として、幾度も古物会を開催し、参加者の中には9代目市川團十郎などもその名を並べた。この頃の日本ではいわゆる考古学という学問が成立をしておらず、ただ好古家(古物愛好家)達が珍品を収集、交換し、それぞれの品に特別な名前をつけて楽しんでいる程度であったが、蜷川たちはここでハインリヒと交流することで当時最先端であった欧州の考古学を学び、またハインリヒはここで彼らとより先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだ。 日本での生活とハインリヒの家族日本橋の商家の娘岩本はな(1851-1936)と結婚し、2男1女を儲ける。長男はハインリヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折。その際の夫婦のやり取りを綴った手紙は子孫である関口家に保存されている。2008年、ハインリヒの没後100年に開催の記念展で公開された。その手紙には我が子を失った悲しみと共に、当時共同居していた異母姉楠本イネに当てて、憔悴しきっているであろう愛妻はなへの心配も綴られている。 その後、生まれた男子・於菟(オットー、1877-1902)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格するが、創作活動の中、体調を崩して25歳の若さで没した。 女子のレン(1879-1965)は2度の結婚で4子を儲け、その子孫は現在まで続いている[2]。 岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われる。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として、若くして子供を亡くしたはなを指名することとなる。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めた。ハインリヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けている。 ハインリヒの帰国と死晩年になり重病を患ったハインリヒは、公使館の職を辞して帰国。1898年、英国軍少佐ウォレス・カーペンターの未亡人ユーフェミア・ウィルソンと結婚。その資産で南チロル地方フロイデンシュタイン城を購入し、膨大な蒐集品を収蔵した。東アジア問題の助言者としても著名であり、訪問者の通訳も務めていた。1907年にウィーンで手術を受けて一時回復し、で呉秀三の『シーボルト』の翻訳に着手したが[1]、親友で主治医でもあるエルヴィン・フォン・ベルツ博士の懸命の治療の甲斐なく、南チロル地方フロイデンシュタイン城にてその生涯を終える。享年56。翌年にユーフェミア夫人も亡くなり、蒐集品はこの年オークションにかけられ四散した。 ハインリヒの功績日本において、ハインリヒが残した功績は数多い。兄が父の外交的才能を受け継いだのに対し、ハインリヒは父の研究分野においての才能を色濃く受け継いだ。また、ハインリヒは日本語が堪能であり、日本人や、日本語が話せるアイヌと直に意思疎通が出来た[3]。 1878年には大隈重信の依頼でアイヌ民族の視察と研究に函館、森町を経て平取に赴く、その際に同時期に同地を訪れていたイザベラ・バードに対して平取の地で和人の振る舞いを正すなどしてアイヌの信任を得ていたハインリッヒはその地の酋長であるペンリウクを伴いバードに紹介しつつ、バードの案内を頼むなどの助力をしている。※イザベラ・バードの研究者である金坂清則氏によれば、偶然の邂逅などはあり得ず、イギリスの依頼を受けて先遣的な役割も担っていたと推察している。 アイヌ視察後の報告書は「北海道歴観卑見」として大隈文書に残り、政府の閣議などにもアイヌの文化的価値とその存続を意見するハインリッヒの発言が残る。また、この際に現地の馬の研究も行い、後日政府に提出した「馬匹改良論」により、日本馬の改良が推進された。 考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘。考古説略を出版し日本に始めて考古学という言葉を根付かせた。エドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させた。しかし、1878年から1879年に日本での考古学的活動を終えている。 兄と共に、父の大著「日本」の完成作業を行い、当時欧州で人気であった欧州王家の日本観光に随行し、彼らの資料蒐集に関わったことも後のジャポニズムブームの起点にもなった。現在欧州に散らばるシーボルト・コレクションはその数、数万点にも及び、その約半数は小シーボルトこと、ハインリヒの蒐集したものであると言われている。 親族
交遊関係
脚注
文献
外部リンク
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