トラビス・ハフナー
トラビス・リー・ハフナー(Travis Lee Hafner, 1977年6月3日 - )は、アメリカ合衆国ノースダコタ州出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 ニックネームはPronk(プロンク)。 経歴レンジャーズ時代1996年、MLBドラフト31巡目(全体923位)でテキサス・レンジャーズから指名を受け入団。 2002年8月6日にMLBデビューを果たし、同シーズンは22試合に出場した。なお同年9月 - 10月には、NPBの中日ドラゴンズ(セントラル・リーグ)が強打の新外国人候補として、フリオ・ズレータとともにハフナーをリストアップしていた[1][2]。 インディアンス時代2002年12月6日にトレードでクリーブランド・インディアンスへ移籍した。 2003年は91試合に出場し、打率.254、14本塁打、40打点を記録。8月14日サイクル安打を達成した[3]。 2004年は主に指名打者として出場。チーム1位(本塁打はケイシー・ブレイクとタイ)となる打率.311、28本塁打、109打点を記録し[4]、17死球はリーグ最多だった。MVPの投票では24位に入り、球団はハフナーと2005年から3年総額700万ドル(4年目はオプション)で契約延長した[5]。 2005年は6月に打率.345、8本塁打、29打点の成績で月間MVPを初受賞[6]。7月は6月を上回る打率・出塁率・長打率を記録していたが、16日のホワイトソックス戦で初回にマーク・バーリーから顔面に直撃する死球で翌17日から15日間の故障者リスト入り[7]。8月4日のヤンキース戦で復帰し、9月18日から23日にかけて球団史上ジム・トーミに次ぐ歴代2位の6試合連続本塁打を記録[8]。同年、打率.305、33本塁打、108打点を記録し、MVPの投票で5位に入った。 2006年は30試合以上を怪我のために欠場しながらもリーグ1位のOPS1.097、リーグ3位の42本塁打、リーグ6位の117打点という成績を挙げた。指名打者として39本塁打、110打点を記録し、1982年アンドレ・ソーントンのDHとしての球団記録32本塁打、109打点を更新[9]。また、1987年のドン・マッティングリーと並ぶ1シーズン満塁本塁打6本のメジャータイ記録を記録した。オールスター前だけで史上初の5本を記録し、8月13日に6本目を打った時点でまだ40試合以上を残していたが、9月1日にC・J・ウィルソンから死球を右手に受けてその後は欠場。タイ記録のままで終わった[9]。 2007年は打点こそ4年連続で100打点をクリアしたものの、打率、本塁打共に前年を下回った。2005年に結んだ契約の2008年のオプションを行使し、2009年から4年総額5,700万ドル(5年目の2013年はオプション)で契約延長した[10]。 2008年は2007年を下回る成績に終わった。出場試合としては、5月25日までの50試合中46試合に出場したが、打率.217・4本塁打・22打点に止まり、その後戦線離脱。9月9日のオリオールズ戦で復帰したが、その後も11試合で打率.122と戦線離脱以前よりも低い打率に終わった。シーズン通じても打率.197・5本塁打・24打点という成績だった。 2009年は94試合に出場し、16本塁打を放つなど、前年と比べると数字は上昇した。 2012年オフにFAとなった。 ヤンキース時代2013年1月31日にニューヨーク・ヤンキースと契約を結んだ[11][12]。4月8日の古巣・インディアンスとの初めての対戦では3点本塁打を放つなど、3打数2安打4打点とチームの勝利に貢献した。4月終了時点では打率.318と好調であったが、その後は月間打率が.200以下ばかりと不調にあえぎ、また肩の故障もあり、82試合の出場にとどまった。オフの10月31日にFAとなった。 ヤンキース退団後2014年1月にノートルダム大学野球部のコーチに就任。 選手としての特徴ポジションは一塁も守れるが、ほとんどの出場が指名打者である。 長打力はメジャーでもトップクラス。2006年から2年連続で100四球以上を記録しており、通算出塁率も4割近い。研究熱心で、指名打者という立場を利用し他の選手が守備についている間、ビデオで投手を研究するなど打撃練習に励み、汗だくで自分の打席に立つこともある[要出典]。 ニックネームのPronk(プロンク)とは「ロバのように鈍重なヤツ」という意味の造語であり、その名の通り、鈍足でベースランニングも下手なうえ、守備もかなりお粗末である。しかしながら本人はこのニックネームを気に入っており、2006年には地元でPronk Barという名のチョコレートバーも売り出され、人気を集めている[13]。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
脚注
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