サンフレッチェ広島F.Cの育成組織
サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(サンフレッチェひろしまエフシーのいくせいそしき)は、Jリーグ・サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(アカデミー、下部組織)。 通称として下部組織と呼ばれることがあるが、Jリーグの指針では下部組織という用語は用いないとしている[4]。一部では愛称として「子熊」[5]「仔熊」[6]と呼ばれている。2チーム編成で大会に登録する場合、片方のチーム名に「セカンド」あるいは「ベアース(BearsあるいはB)」を付け登録している場合もある。これらの熊とは、チームマスコットであるツキノワグマのサンチェに由来する。 2024年時点で男女ともにチームがある。スクール拠点は、広島県内のほか山口県や島根県にもある[7]。 クラブは目標の一つに「日本一の育成・普及型クラブ」を掲げ[8][7][9]、その中で「技術があってハートもあってハードワークできる」選手の育成を目指している[10]。そしてサッカーの技術的な面だけではなく、メンタル面でのアプローチ[11][3][12]、学業・生活面の指導など人間教育にも力を入れている[8][13][14][15]。 体験入会・セレクションなど詳細に関しては公式ホームページ等を参照。 組織Jリーグクラブライセンス制度では、Jリーグの各チームにU-18チーム、U-15チーム、U-12チーム、U-10チームを保有することを義務づけ、女子チームを保有できるものとしている。これを元に広島では以下のチームを編成している。 選手スタッフ
拠点
取り組み前史
広島は古くは静岡・埼玉と共にサッカー御三家と言われる土地であった[16][17]。戦前から広島高師附属中学(現広大附属高)・広島一中(現国泰寺高)・修道中学(現修道高)の広島サッカー御三家を中心に全国大会で数々のタイトルを取り、福原黎三・渡部英麿・松田輝幸・浜本敏勝ら教員指導者の尽力により、数多くのサッカー選手を輩出してきた[18]。 1950年代後半になると、指導者不足から東洋工業蹴球部(後のマツダSCでありサンフレッチェ広島F.Cの前身)をはじめとする地元実業団の現役選手が頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになった[注 1][19]。1965年東洋工業現役選手によるサッカー教室を正式に開始[20]、のち「マツダサッカースクール」の名で船本幸路や小城得達など蹴球部OBを講師に県下を指導・普及して周っていた[注 2]。 1970年代以降オイルショックから広島経済の地盤沈下が進み、広島サッカーも影響し停滞していった[18][17]。地元出身の有望選手は大学を卒業後関東や関西の実業団チームへ入団し、有望な中学生は他県の高校へ越境入学するなど、タレントが流出していった[18]。
1984年、マツダSCがJSL2部に降格したことを機に、今西和男が強化担当(兼監督)に就任した[24]。今西は蹴球部OBだが引退後はマツダ社員として働いており、指導者としてのキャリアがまったく無かったので、オランダからハンス・オフトをコーチに招聘した[24]。 今西は外国人選手獲得[注 3]も兼ねて、オフトの出身クラブであるフェイエノールトとその他にもアヤックス・アムステルダムを視察した。そこで、プロには「予備軍」(フェイエノールト・アカデミーとアヤックス・アカデミー[注 4])が存在すること、予備軍ではトップの内容に近いトレーニングをこなしてること、プロになれなかった場合のリスクを避けるために予備軍に勉強をさせていたこと、を知った[26][25]。 一方、新たな日本人選手発掘・獲得には、地方というハンディキャップからかなかなか即戦力の選手を獲得できなかった。彼らは相談した結果、即戦力となる大卒選手の獲得を継続する中で、高卒選手の獲得と育成に力を入れ、フェイエノールトやアヤックスのような予備軍の整備を目指そうとした[25]。さっそく2軍である「マツダSC東洋」を強化し中国サッカーリーグに参戦、森保一・片野坂知宏・柳本啓成らを育成していった[27][28]。 さらに指導者育成にも着手[29]、後に小林伸二や松田浩、中村重和などチームを影で支える指導者が誕生した。 また1990年代以降、当時マツダSCコーチだったビル・フォルケスの紹介で、森保や高木琢也[注 5]など若手数人を年に1度1ヶ月程度マンチェスター・ユナイテッドFC.リザーブやイプスウィッチ・タウンFCなどイングランドのチームに練習参加させていた[31][30][32][33]。なおこうした選手の中には虫谷泰典[注 6]のようにプロ契約せずマツダ社員として勤務したものもいる[33]。 高校年代の強化
1993年Jリーグが開幕すると、すべてのJリーグクラブは育成組織を持つことが必須となった。サンフレッチェ広島では当初ハード面で遅れており、特にユースは広島市内で練習グラウンドの確保すらままならなかった[25]。そこへ高田郡吉田町(現安芸高田市)がサッカーを中心としたスポーツで町おこしをする「若者定住促進等緊急プロジェクト」の一環として全面協力することが決定、ユースは育成拠点を吉田町内に置き、町内の吉田運動公園を練習拠点として活動を開始した[8][13]。 ほぼゼロからのスタートであったが、前身の東洋工業/マツダSC時代から若手を育てることがクラブとして生きる道だという思い[25]から、若手育成のノウハウができつつあり、その後の試行錯誤から以下のような発展を遂げた。
歴代コーチは、トップチームでプレー経験のあるもの、プロ選手経験はないがサンフレで指導経験を積んだもの、あるいは外部からの招聘など、様々な指導者が就任している。歴代監督はマツダ/サンフレのトップチームでプレー経験のある人物が就任していたが、2020年からトップチームでのプレー経験がないが広島県出身の高田哲也が就任している。2023年から全く関連性のない野田知が監督に就任、コーチ陣は全員広島ユース出身同期が就任している。 1種アマチュアマツダSC時代にはセカンドチームとしてマツダSC東洋が存在したが、Jリーグ発足に伴い関係性は切り離され新生マツダSCとしてアマチュアリーグに参加している[28]。サンフレッチェ広島としては、2015年時点で1種アマチュアチームいわゆるセカンドチームは創設する予定はないとしていた[40]。ただ大人向けのサッカースクールは開校している。 女子スクールには女子も入ることができ、広島ジュニア出身者でなでしこリーグチームに入団したものもいる。サンフレッチェ広島としては2015年時点で女子チームを創設する予定は全くなく地元のアンジュヴィオレ広島とともに広島サッカー界を盛り上げていくとしていた[40]。 のちWEリーグ創設にあたり、アンジュヴィオレはプロ化を断念しサンフレッチェ側にWEリーグ参加を要請[41]、2021年サンフレッチェ広島レジーナを設立している。またチーム発足に伴い、2021年から女子アカデミー(レジーナジュニアユース)が発足した。なおアンジュヴィオレは新型コロナウィルスによる経済悪化に加え、WEリーグ(サンフレッチェレジーナ)誕生に伴いなでしこリーグのメディア露出が減り広告宣伝効果が減ったことで企業からの出資が減ったため運営が困難になったとして、2022年度を最後に下部組織含めて解散する[42][43]。 2024年、レジーナユースを設立する。 中学年代の強化歴代監督・コーチともに、トップチームでプレー経験のあるもの、プロ契約はないがサンフレッチェで指導経験を積んだもの、あるいは外部からの招聘など、様々な指導者が就任している。 ユースと同様に強化に努めたが、結果として現れだしたのは2000年以降である。ここで育った選手がユースに昇格し、ユースも結果が出るようになった。 過去には県サッカーのレベル低下を防ぐため、意図的にユース昇格を制限していた時もあったという[44]。広島県の高校による2000年代の高校3大大会(インターハイ・高円宮杯・選手権)好成績はジュニアユース出身者によってもたらされている[18][17][45]。ただ2020年報道によると、他県のレベルアップと広島県の高中体連の地盤沈下に伴い、昇格を逃した選手が県外のクラブチーム・学校へ越境入団するケースが顕著になったという[46]。 提携
提携スクールは、一般的な町クラブのように地元団体・企業が運営し、サンフレッチェが指導者を派遣するなど技術提携する形をとっている。ほぼゼロから始めたところばかりだが、中には町クラブを前身としサンフレッチェと技術提携したことにより提携スクールとなったところもある[47][48]。 以下は現在開校している提携スクールである。
以下は、以前提携スクールとして活動していたが離脱したスクールである。
→「ツネイシ・スポーツアクト」を参照
サッカースクールのうち観音の中学生スクールは山陽高等学校人工芝グラウンドで行われている。 2024年サンフレッチェ広工大高ジュニアユースが開校した。監督のみサンフレッチェのスタッフ、拠点やコーチ陣は広島工業大学高等学校がサポートする形で運営する[50]。
前述のとおり広島県のサッカーは1980年代に停滞し、1990年代以降サンフレッチェを中心に高校生年代の強化に成功したものの、中学生年代は未整備だった。これに対し、市内の小学生年代の町クラブが広島大河FCをモデルケースとして中学生年代のチームを作る動きが加速し、指導体制を強化した[18][45]。 この流れにサンフレ側も協力している[7]。例えば、毎週火曜日に高校サッカーや街クラブの指導者とサンフレ育成スタッフ全員が集まる"育成ミーティング"を開催、その中でサンフレ育成ノウハウを公開しお互い情報交換するなど、広島のサッカー発展に貢献している[51]。 2022年福山市を拠点とする一般社団法人RSスポーツクラブ(福山ローザス・セレソン)と提携、ローザスレディースを改称してサンフレッチェ福山レジーナジュニアユースが発足した[52]。
上記の通りマツダSC時代から海外クラブへの留学をしていた。木村龍朗は2001年にマンUへ留学したと証言しており[14]、少なくとも2000年代初頭まで海外留学は続けられていたことになる。 2021年9月15日1.FCケルンと育成業務提携を締結した[53][54]。提携期間は2021年9月1日から2024年8月31日まで[55]。 普及事業その他
女子の「フレッチェレディーススクール」、小学生年代の「スクール」や中学生年代の「ジュニアユーススクール」、GK専門の「GKスクール」や、サッカー未経験の大人を対象とした「おとなスクール」など、幅広く行っている。 なおその中のいくつかはトップス広島との提携の形で運用している。
トップス広島やP3 HIROSHIMAでの活動の一環として、広島市主催の公共事業「Doスポーツ体育指導者招へい事業」の一環として、また広島県体育協会主催の「ジュニア育成事業」の一環として、トップチームの選手や育成コーチングスタッフ含めた全スタッフが広島市内を中心に県内の小学校訪問を1年間で平均約10校程度行っている。
元々マツダSC時代から指導者育成に力を入れており[29]、広島育成組織での指導経験がある人物でJFA 公認S級コーチを取得し他クラブで活躍しているものもいる。 2013年から他クラブに先駆けて、トップチームの現役選手がCないしD級コーチ資格を取得する手助けとして、クラブ独自で講習を開いている[56]。 評価ノウハウこれらは比較的小さいクラブ財政基盤での戦力強化モデルであること、またトップチームの2012年・2013年のJリーグ連覇の要因の一つとなったことから、その育成ノウハウがお手本として注目されている[26][57][58]。これに対し広島側はそのノウハウを全面的に公開している[51][7]。例えば、京都サンガF.C.は2005年"スカラーアスリートプロジェクト"を立ち上げたがベースとなったのが広島の育成ノウハウであり[59]、鹿島アントラーズは寮整備と高校との連携の際には参考にしたという[39]。城里町と水戸ホーリーホックはアツマーレ整備の際に、吉田町とサンフレッチェとの関係性に着目している[60]。 ノウハウ公開と平行して、研修などを目的とした短期間の受け入れも行っている。例えば、フィッツジェラルド舞行龍ジェームズは2004年15歳当時広島ユースで短期間受け入れ[注 8]、これが縁で日本の高校に通いプロ入りし日本に帰化している[61]。 かつてJリーグが始まったころ、少ない予算の中で自前の選手を育てることに長けたクラブとしてジェフ市原とともに評価されていた[62]。2016年中国網は「日本一大“球星加工厂”」と紹介している[63]。 プロ実績ホームグロウン制度において、サンフレッチェ広島はJリーグチーム内でも優秀な方になる。ただアカデミー出身選手に限るとクラブ財政の問題からトップチームですぐ使える選手を昇格させているため、その昇格人数は極めて少なくなっている[10][64][65]。更にトップチームの成績向上に伴いアカデミー出身選手がレギュラーに割って入れない状況もあり[66]、他のJリーグチームへレンタル移籍して経験を積むものもいる[67]。 以下、広島トップチームにおける年度シーズン開幕時点でのホームグロウンの人数と、その中での広島アカデミー出身者の人数を示す。Yはユース、JYはジュニアユースの略。
卒団後の進路サポートも重視しており、ユースにおいてはプロになれなかった選手の就職および大学進学率はJリーグユースの中でもトップクラスを誇る[38][13]。広島アカデミーを退団後他の学校などで活躍し、広島のみならず他のJリーグチームでプロ入りを果たした選手もいる[67]。 以下、2023年12月11日時点での各国の1部リーグで100試合以上出場したアカデミー出身者を示す。プロ在歴は全カテゴリでのプロチーム在籍期間。1部リーグの出場・得点はJ1と海外の1部リーグの合計のみであり、J2などの2部リーグ以下やカップ戦、国際試合などは含めない。
2012年2月24日日本代表対サッカーアイスランド代表戦にて、駒野・森脇・槙野・柏木が日本代表として出場を果たした。国際Aマッチにおいて同一アカデミー出身者4人出場は日本サッカー史上初のことである[68]。東アジアカップ2013では国内組の縛りがあったこともあり、駒野・森脇・髙萩・槙野・森重と5人日本代表に選ばれている[69]。2023年11月16日日本代表対サッカーミャンマー代表戦で前川・大迫とGK2人交代で出場している[70]。
不祥事
主な戦績ユース
2000年、ユースが天皇杯広島県予選にあたる全広島サッカー選手権大会で初優勝し、天皇杯に初出場。その後、2度出場したがすべて1回戦敗退している。 天皇杯 ジュニアユース
ジュニア
国際試合
2003年と2014年にジュニアユースがJFAプレミアカップ(旧ナイキプレミアカップ)優勝したことに伴いマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップに出場している。 プレミアカップ
ユースは高円宮杯決勝進出の副賞として、2005年と2008年の2度にわたりドイツで開かれたSBCカップに出場している。 SBC
→「公式ホームページ」を参照
高円宮杯決勝進出の副賞として、イタリアで開かれたクラウディオサッシ国際ユーストーナメントU-18大会に出場した。2年連続でフェアプレー賞を受賞した。 なお、2012年はACチェゼーナのトップチームとも対戦、シモーネ・デル・ネロらに得点を奪われ0-6で敗戦している[73]。 クラウディオサッシ
→「平和祈念広島国際ユースサッカー」を参照
2006年から広島県で行われている国際大会に出場している。 特記
創立当初から中国地方のユース年代では抜けた存在であったため、近隣になかなかいい対戦相手がいなかった。そのため1998年、中国サッカーリーグの前期日程(第1節-第8節)にオープン参加している。しかし、社会人リーグのリーグ編成および日程の関係から、この年のみで終了した。戦績は7勝1敗。
森山佳郎が監督として率いた2003年・2004年の広島ユースは、2年連続でユース三冠(クラブユース選手権・高円宮杯・Jユースカップ)のうち二冠を達成し、"広島ユース黄金時代"と呼ばれた[34][75][15]。これは2001年からクラブ全体が攻撃的なサッカーへの転換を模索しだしたこと[76][77]、それに伴いチームとして質を上げるため2001年のみスカウト活動を積極的に行ったことにより入団した選手が高校2年・3年になる2003年・2004年に結果として現れたためである[78]。 前田俊介・髙柳一誠・森脇良太・柏木陽介・槙野智章・平繁龍一ら、タレントがズラリ揃った2004年には、3大会とも決勝に進出した[75]。レギュラー11人が全員プロ入りしたこのチームは強さと巧さを兼ね備え、なおかつ勝負強く、史上最強ではといわれるチームであった[75]。ただ、最上級生に田坂祐介・西山貴永・田村祐基ら、そしてクラブ史上初のプロの高校生Jリーガーとなる髙萩洋次郎が在籍した2003年のチームのほうが記録的には上で、公式戦で2敗のみ(高円宮杯準決勝静岡学園戦と2003年天皇杯1回戦対J2水戸ホーリーホック戦)しかしていない。
高円宮杯はクラブユースと高体連つまり2種登録チームすべてが参加する唯一の大会であり、現在は高校年代サッカーの最高峰と位置づけられている。この大会において2010年代初頭に、第21回高円宮杯・2011年高円宮杯プレミア・2012年高円宮杯プレミアと3連覇を達成している[34][15]。3大会の決勝すべてに出場したのは野津田岳人ら2人、2大会の決勝出場が脇本晃成・川辺駿・宮原和也らがいる。なお2012年はトップチームがJ1リーグ制覇を達成しており、リーグ戦として“兄弟制覇”ということになる[79]。 大会レギュレーション変更を挟むため、参考記録ではあるが、2024年時点では、3連覇は清水市商高と広島ユースのみである。 スポンサー→「サンフレッチェ広島F.C § ユニフォーム」も参照
出身者主な選手所属経験のうち、Yはユース、JYはジュニアユース、Jrはジュニア、Sはスクールの略。提携スクールのうち、くにびきは「く」、びんごは「び」、みろくの里は「み」、常石は「常」と略記。五十音順表記。サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧もあわせて参照。 1970年代生まれ1970年代生まれ 1980年代生まれ1980年代生まれ
1990年代生まれ
2000年代生まれスタッフ
脚注注釈
出典
参考資料
関連項目外部リンク |