オラニエ=ナッサウ家
オラニエ=ナッサウ家(蘭: Huis Oranje-Nassau)は、現在のオランダ王家。元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流である。ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占した。 歴史オラニエ=ナッサウ家の成立までナッサウ家のうちナッサウ=ディレンブルク伯オットー1世 (en) の家系は、14世紀から15世紀にかけてネーデルラントに勢力を伸ばし、随一の名門となっていた。16世紀初めにはブレダ領主ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ (en) がブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州の総督に任命されている。ヘンドリック3世と弟のナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム (en) はそれぞれ、ネーデルラントを含むライン左岸の領地と、ナッサウ家伝来のライン右岸の領地とを相続していた。ヘンドリック3世の息子ルネ・ド・シャロンは父の遺領に加えて、母方の叔父から南フランスのオランジュ公領(元来は神聖ローマ帝国に属した)も相続していたが、1544年に戦死した。跡継ぎがいなかったルネの遺言により、ヴィルヘルム1世の長男ウィレムは、従兄ルネの遺したネーデルラントの所領とオランジュ(オランダ語でオラニエ)公領を11歳で相続し、オラニエ公ウィレム1世となった。以後、ウィレム1世の子孫は代々オラニエ公を継承し、その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウ=ディレンブルク伯の所領は父ヴィルヘルム1世から次男ヨハン6世に相続された。 オランダ総督からオランダ国王へオラニエ公ウィレム1世は八十年戦争において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献した。ウィレム1世と兄に協力したナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンおよび彼らの子孫は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会あるいは連邦議会が任命する総督(統領)職をほとんど世襲し、君主に近い地位を占めた(歴代のオラニエ公は、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4~5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はヨハンの家系が占めた)。 総督・オラニエ公ウィレム3世が名誉革命によりイングランド=スコットランド王位につくと、1代限りではあったが事実上の同君連合が成立した。ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位を世襲することが公式に認められた。 フランス革命が起こるとオランダにも余波は及び、フランス軍の侵攻を受けて連邦共和国は崩壊し、ウィレム5世は総督の座を追われた。すでにオラニエ=ナッサウ家と共和国の政治体制に対して国民の不満が渦巻いており、フランスの侵攻はオラニエ=ナッサウ家追放の絶好の機会であった。以後ナポレオン1世の没落まで、オランダはフランスの支配を受けた。当初フランスは解放者として受け入れられていたが、ナポレオンがフランス皇帝となると、次第に不満が募って行き、オラニエ=ナッサウ家の復権の機会を与えてしまうこととなった。 ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨し、現在に至っている。なお、南ネーデルラントは1830年にベルギー王国として独立した。また、オランダ王はルクセンブルク大公を兼ねていたが、1890年に同君連合を解消し、ルクセンブルク大公はナッサウ家の別系統であるナッサウ=ヴァイルブルク家が継承した。 オラニエ=ナッサウ家当主オラニエ(オランジュ)公
オランダ(ネーデルラント)国王没年と在位年数が一致しないのは、譲位し引退出来る制度があるため(終身制ではない)。
系図主な姻戚関係、傍系の家系についても併せて示す。
オラニエ公家 (1)
オラニエ公家 (2)
オランダ王家、ルクセンブルク大公家
脚注参考文献
関連項目外部リンク
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