オスカー・ニーマイヤー
オスカー・リベイロ・デ・アルメイダ・ニーマイヤー・ソアーレス・フィーリョ(ポルトガル語: Oscar Ribeiro de Almeida Niemeyer Soares Filho [ˈoskaʁ ni.eˈmajeʁ])、1907年12月15日 - 2012年12月5日)は、ブラジル、リオデジャネイロ市生まれの建築家。 プロフィール巨匠とともに1907年に、当時ブラジルの首都であったリオ・デ・ジャネイロのドイツ系の家庭で生まれた。なお、本人は「自分にはインディオか黒人の血も混ざっているかもしれない。でもそれは私にとっては誇りである」と語っている[1]。 1929年、バルナピタス高校卒業。1934年にリオデジャネイロ国立芸術大学建築学部を卒業。1935年からリオ・デ・ジャネイロのルシオ・コスタとカルロス・レアンの設計事務所に勤務し、旧教育保健省庁舎の設計に関わった。この際、ルシオ・コスタが設計顧問としてル・コルビュジエを招いたことをきっかけにコルビュジエと出会う。 ブラジリア1940年、当時ベロオリゾンテの市長を務めていたジュセリーノ・クビチェックと出会い、パンプーリャ湖畔の開発計画に参加。1945年、ブラジル共産党に入党。第二次世界大戦後の1952年にル・コルビュジエらと共にアメリカ・ニューヨークの国際連合本部ビルをデザインした。 ブラジルの大統領となったクビチェックの呼びかけで1956年から1960年にかけて新首都ブラジリア(首都移転は1960年)建設計画に参加した。コンペを経て選ばれたルシオ・コスタの総合監修の下、大統領官邸や国会議事堂、最高裁判所、法務省、外務省などの主要建築物の設計を行った。 ブラジリアのどの建築物にも、ニーマイヤーが語るところの「自由な曲線」が多用されており、1987年には近代都市では初の世界遺産に登録された。 亡命1960年代から1980年代中盤にかけてのブラジルの軍事政権下においては、その左翼的な政治志向が嫌われたため、ブラジルでの設計活動を禁止された。1967年、フランスのパリに亡命に近い形で住み着く。その後の20年程はフランスを活動の拠点として、フランス、イタリア、アルジェリアなどで設計を手がけた。フランス共産党に入党して党本部の設計も行った。 帰国後1985年の民政復帰後はブラジルに戻って設計活動を再開し、生まれ故郷のリオ・デ・ジャネイロに在住し設計活動を行った。なおAP通信の報道によると、2006年11月16日に秘書の女性と再婚した。 2012年12月5日、肺炎などのためリオデジャネイロの病院で死去[2]。104歳没[3]。 受賞
受勲
作品
出演
その他
関連項目
脚注
外部リンク |