久自国造
久自国造(くじのくにのみやつこ、くじこくぞう)はのちに常陸国北中部となる地域(久自国)を支配した国造。 概要表記「久自国造」は『先代旧事本紀』度会延佳神主校正鼇頭旧事紀[1][2]・同書前田侯爵家[注 1]所蔵安貞年間古写本[2]による表記である。同書神宮文庫本では「久目[4]国造」と表記されている[2]。 祖先
氏族本拠のちの常陸国久慈郡。現在の茨城県日立市・常陸太田市など。下記稲村神社の鎮座地一帯。なお久慈郡の郡衙跡であると考えられているのは、茨城県常陸太田市の大里町から薬谷町にかけてある長者屋敷遺跡である。 支配領域久自国造の支配領域は当時久自国と呼ばれていた地域である。久自国はのちの令制国の常陸国の北中部(久慈郡[7])をさし、久慈川流域[8]すなわち現在の茨城県日立市・常陸太田市周辺に当たる[7]。 地名の由来については、久慈郡#郡名の由来を参照。 久自国はのちに令制国の整備にともなって、周辺の6国(筑波国、新治国、茨城国、仲国、高国(多珂国)、道口岐閉国)と合わさって常陸国となった。 氏神久自国造の氏神は、茨城県常陸太田市(旧久慈郡)にある稲村神社(いなむらじんじゃ、稻村神社、北緯36度31分39.33秒 東経140度30分03.63秒 / 北緯36.5275917度 東経140.5010083度)である。主祭神は久自国造の祖先伊香色雄命の祖である饒速日命。社伝では、初代国造の船瀬足尼命が成務朝の任命の際に大祖・饒速日命を祀ったという。 関連神社
墓人物
脚注注釈出典
参考文献
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