ソフトロック
ソフトロック(soft rock)は、ロック・ミュージックの音楽ジャンルのひとつ。 定義については日本における認識と、日本国外における認識に相違がある。この記事では、主に日本におけるソフトロックについて記述する。 概要日本に於いてソフトロックと呼ばれる音楽は1960年代中盤から1970年代前半の、コーラスやハーモニーが中心の心地よいソフトなポップス、ポップ・ロックを指す。現代でオールディーズと言われる60年前後の音楽がビートルズの出現で淘汰され、それまでの決まりきったコード進行やメロディラインを捨てた、洗練されたポップミュージックであると定義できる[6]。また、基本的にはゲイリー・アッシャーやキース・オルセン、カート・ベッチャー、ジェリー・ロスといった「プロデューサー主導」で作られた音楽だとも言える。代表的なアーティストとしては、「アソシエイション」「ロジャー・ニコルズ」「ハーパース・ビザール」等が挙げられる。主に米国西海岸、特に「カリフォルニア」のグループが該当するが、米国の他の地域のグループも存在する[注 1]。幾つかの英国グループ、またその他の国のグループもこのジャンルに分けられることもある。 楽曲的には「高度なコーラスワーク」や「ドゥーワップの影響を受けたスキャット」、「ドリーミーな曲調」や「サイケデリック要素」、「ストリングス、ブラス、ハープシコード等のオーケストラ楽器の多用」や「高度で複雑なコード進行」等が重要な要素だと言える。 場合によっては「サイケデリック・ロック」や「サイケデリック・ポップ」、「バブルガム・ポップ」に分類されるものもしばしば存在する。また、シングル一枚程度で活動を終了する様なグループや、リアルタイムの発売当初には全く売れなかったグループも多かったことから「ガレージ・ロック」[注 2]として扱われることもある。また、イギリスではフライング・マシーン、グレープフルーツ、ゾンビーズ、ピーター&ゴードン、チャド&ジェレミー、シーカーズ、ニルヴァーナ (UK)、スコットランドではマーマレード、カナダではア・パッシング・ファンシーやミューチュアル・アンダースタンディング[7]、その他ではブラジル[8]他中南米ではペルーやアルゼンチン、欧州は特にフランスのフレンチ・ポップ(イエイエ)をソフトロックと捉える場合が多く、その他各国にも優れたグループが存在する。日本のアーティストでは当時のグループサウンズの荻野達也とバニーズ[9]やザ・ハーフ・ブリード[10]などをソフトロックと捉える例が存在する。 現代においては、ロジャー・ニコルズなどの当時のミュージシャンによる新緑の作品のリリースや、その他ザ・サークルやバッキンガムズ、クリッターズなどノスタルジー・マーケットに向けた再結成も多い。また、フォロワーとも言えるグループやミュージシャン、明確に「ソフトロック/サンシャイン・ポップ」を標榜するグループ等が各国に複数存在する。日本だとザ・ペンフレンドクラブ、スプリングス、アメリカだと「The Explorers Club」(エクスプローラーズ・クラブでは無い、同名別バンド)などが該当する。 歴史日本でいうところの「ソフトロック」は1950年代から1960年代初頭の、ブリル・ビルディング・サウンド、或いはティン・パン・アレー系の、いわゆる古き良きアメリカン・ポップスが、当時のフォークロックやカリフォルニア・サウンド、ブリティッシュ・インヴェイジョンからビートルズが使った斬新なコードワークとメロディ、更にサーフ・ミュージックやイージー・リスニング、サイケデリック・サウンドなどの要素、当時のドラッグ・カルチャーやヒッピーの影響を受けて進化した物だと言える。最初のこのジャンルのヒット曲と言える物は1966年、アソシエイションの「アロング・カムズ・メアリー」(USチャート7位)で、その後売上的には1967年をピークとして、グループ数は1968年ごろをピークとしてこのジャンルのグループ、アーティストが増えていったが、殆どのグループはセールスが振るわず、結局アソシエイションで2曲とバッキンガムズが1曲、チャートトップを取り、トップ10ヒットは諸々を合わせて10曲程度で、マイナーなジャンルとして1970年代初頭には廃れ、1980年代の英米では、ほぼ完全に「忘れ去られたジャンルの音楽」として判断され、無視されていた。また、このジャンルを表す言葉も存在しなかった。 日本では、東芝音楽工業(後の東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン、現・ユニバーサルミュージック・EMI RECORDSおよびVirgin Music)所属のグループ・サウンズのザ・ハーフ・ブリードのジャケットに「日本初のソフト・ロック・ハーフブリード」とキャッチフレーズが入り、当時リリースされたハーパース・ビザールやアソシエイションのアルバム、またワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)からのブレッドのアルバムに「ソフト・ロックの王者」「ソフト・ロックのチャンピオン」「ソフト・ロックのスーパーグループ」などのキャッチフレーズがレコードの帯に付けられていた。当時の担当者の談によると、「自然発生的に流通しており、それを拝借した」という[5]。だが、日本でも世界でも文化的ムーブメントもなく、以降もしばらくの間、この言葉が定着することはなかった。 1980年代から、青山の「パイド・パイパー・ハウス」や吉祥寺の「芽瑠璃堂」、原宿の「メロディー・ハウス」のような東京の輸入レコード店や、ミニコミの音楽誌、特に「POP-sicle」は山下達郎なども寄稿し、このジャンルを再評価をする流れを生んだと言える[5]。そういった店に通って影響を受けたフリッパーズ・ギターの小山田圭吾や小沢健二、ピチカート・ファイヴの小西康陽などのミュージシャンが「渋谷系」と呼ばれ評価されるようになった。一般の『レコード・コレクターズ』誌や『ミュージック・マガジン』誌などの音楽誌も追従し、記事に取り上げるようになっていった。並びにレコード会社もこのジャンルに注視しCDでの再発を進めたことによって、このジャンルの人気が上がっていった。この流れで重要な人物としてパイド・パイパー・ハウス」の店長で音楽プロデューサーでもある長門芳郎が挙げられる。長門は数多くのこのジャンルのCDのリイシューをプロデュースしており、「ロジャー・ニコルス&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ」や「サジタリウス」、「ザ・ミレニウム」などの重要な作品の再リリースをプロデュースしており、このジャンルの普及に最も尽力した人物だと言える。そして1996年に出版されたミニコミ誌の『VANDA』(創刊1991年)編集人の佐野邦彦編の「ソフト・ロックA to Z」(音楽之友社、ISBN 4-276-23804-8)によってこのジャンルが定義され、またこの「ソフトロック」という言葉も定着した。 日本国外の「Soft Rock」日本において「ソフトロック」とされる音楽は、1980年代の英米では全く顧みられない音楽であった。これは音楽評論が「ポップス軽視」の姿勢を取り続けたことが大きい。自作自演のロックならミュージシャン主導の物なので優れている、その反面ポップミュージックはスタジオミュージシャンとプロデューサーの仕事で「商業主義の権化だ」といったカウンターカルチャー的姿勢から、これら音楽を「軟弱が過ぎるもの」として無視していた[6]。このジャンルの音楽は、過去のレコード盤かごく一部の限られたアーティストのベスト盤、オムニバスの編集盤ぐらいしか存在しなかった。80年代後半から90年代の初頭に於いて日本国内の各レコード会社がこのジャンルのレコードのCD化を進めた事によって、逆輸入的に存在がクローズアップされるようになった。英米がこのジャンルに注目するようになったのは90年代も後半で、かなりの時期「CDで聴きたいならば日本盤しかない」という状態が続いた。この「ソフトロック」人気は、日本先行であり、日本発の世界初CD化や日本のみでのCD発売、日本の業者による非CD化音源の海賊盤の例も多い[注 3]。 日本国外で「Soft Rock」というとほぼ全く違う音楽を指す。音楽データベースサイト「AllMusic」によると
となっている。英語版Wikipediaでは「このジャンルは、フリートウッド・マック、エルトン・ジョン、ジェームス・テイラー、ホール&オーツなどのアーティストによって開拓された」と概要で記されている。更に「ソフトロック・アーティスト及び曲一覧」では「スティーリー・ダン」や「ドゥービー・ブラザーズ」[注 4]、「クリストファー・クロス」辺りの一般的にAORとされる音楽や、「ジャーニー」、「シカゴ」、「イーグルス」と言ったロックバンド、「ジャクソン・ブラウン」[注 5]や、「ニール・ヤング」、「エド・シーラン」等のシンガー・ソングライター等々が「ソフトロック」とされている。日本で「ソフトロック」と呼ばれるものは欧米では近年「サンシャイン・ポップ」と呼ばれるようになっている。 主なアーティスト一部ソフトロックといえる曲、アルバムが存在するグループ他ジャンルとしてデビュー、若しくは割合としてソフトロックと呼べない作品の方が多い、少数のみソフトロックの曲を発表しているアーティスト。
純粋なソフトロックアーティスト
主な楽曲
脚注注釈
出典
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