パイド・パイパー・ハウス座標: 北緯35度39分45秒 東経139度42分42秒 / 北緯35.662470度 東経139.711548度 パイド・パイパー・ハウス (Pied Piper House) は、かつて東京都港区南青山の通称「骨董通り」にあった、おもに輸入レコードを扱っていたレコード店。1975年11月に開店し、1989年6月に閉店した。その後は、しばしば「伝説」的な存在として言及されるようになった[1][2]。 沿革模索舎に関わりのあった岩永正敏、小林健らを中心に「新しい音楽空間」を構想する中で、レコード店の運営が企画され、1975年10月に岩永を代表取締役として有限会社パイド・パイパー・ハウスが設立され、木造モルタルの建物を改装した店舗が11月15日に開店した[3]。鈴木康司が看板の制作や紙袋のイラストなどを手がけた[3]。店内には喫茶コーナーも設けられており、ミュージシャンをはじめ音楽関係者が数多く常連として出入りしていた[3]。 1976年1月に、長門三恵子がスタッフに加わり[3]、次いで1977年12月に三恵子の夫で、シュガー・ベイブやティン・パン・アレーのマネージャーを経験していた長門芳郎が、スタッフに加わった[4][5]。1978年以降、岩永が健康を損ね、また、他の事業に注力するようになると、長門が店長として、店の特徴を明確にしていった[2]。 1981年には、常連客のひとりであった田中康夫の『なんとなくクリスタル』の作中で言及されたことから、多数の客が店に訪れる一時的なブームが起きた[6]。また、村上春樹の1983年の短編小説「雨やどり」にもパイド・パイパー・ハウスが登場する[7]。 1980年代には、タワーレコードやWAVEなどの大手輸入レコード店の登場や、競争相手の増加などによって、品揃えの特化が進み、ウェストコースト・ロック、AOR、ニューオリンズ系、オールディーズに強いといった評判を得ていた[8]。もともと岩永が主導していた時期から、パイド・パイパー・ハウスはレコード販売のほか、海外のアーティストの公演などにも関わっていたが、長門が主導していた時期にもドクター・ジョンの初来日を実現させている[9]。また、青山学院大学の学生時代から常連客だった小西康陽のピチカート・ファイヴなど、日本のアーティストのプロモーションにも関与していた[10]。 1989年春に、輸入レコード店の競争の激化を受け、パイド・パイパー・ハウスは閉店を決め、在庫一掃セールを行った上で6月29日に閉店した[11]。7月18日には六本木ピットインで、関係者の「フェアウェル・パーティ」が開催された[11]。 2016年7月15日タワーレコード渋谷店5Fの特設コーナーに「PIED PIPER HOUSE in TOWER RECORDS SHIBUYA」として期間限定にて復活オープン[12]。当初は約半年間の予定だったが、オープン後の好評を受け2017年1月12日 、さらに半年間の営業期間延長が決定した[13]。6月20日、期限を決めずに当分の間ということで、さらに営業期間の延長が発表された[14]。 、かつて店舗があった南青山5丁目10-6[15]の跡地には、1993年にオフィスビルのテラアシオス表参道が建設された[16]。 関連作品
※『バイド・パイパー・デイズ』シリーズとは、長門芳郎監修によるCD再発企画シリーズのこと。 脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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