ジャスパー郡 (ミズーリ州)
ジャスパー郡(英: Jasper County)は、アメリカ合衆国ミズーリ州の南西部に位置する郡である。人口は12万2761人(2020年)[1]。郡庁所在地はカーシージであり、同郡で人口最大の都市はジョプリンである。ジャスパー郡は1841年に組織化され、郡名はアメリカ独立戦争の英雄ウィリアム・ジャスパーに因んで名付けられた。 ジャスパー郡はジョプリン都市圏の中核である。 歴史オーセージ族ジャスパー郡となった地域にヨーロッパ人が接触する以前、オーセージ族インディアンが地域を支配していた。オーセージ族は自らを「水の中間の子供達」 (Ni-U-Kon-Ska) と呼んでいた[2]。これは、その領土がミズーリ川と北のオーセージ川、東のミシシッピ川、南のアーカンザス川の間にあったからだと考えられる。西にはグレートプレーンズがあり、そこでバッファローの狩りを行った。 ヨーロッパ人とオーセージ族が接触した初期の記録は、1673年にフランス人イエズス会宣教師で探検家だったジャック・マルケットが作成した地図に読み取られる。マルケットは遭遇した部族の名を耳で聞いた音をフランス語で Ouchage,(ウーシェイジ)と綴った[3]。マルケット探検隊から数年後、フランス人探検家がリトルオーセージの集落を発見し、そこを Ouazhigi と呼んだ。部族名のフランス語音訳は最終的に Osage となり、これをヨーロッパ系アメリカ人も使った[4]。 1682年、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがカヌーで、ミシシッピ川をメキシコ湾まで下り、その流域全体をフランス王ルイ14世に因んで、「ラ・ルイジアン」と名付けた。1699年、ルイジアナはヌーベルフランスの管理区域と指定され、ヨーロッパ列強(フランス、イギリス、スペイン)の間では、ジャスパー郡となった地域はフランス領だった。フランスはその後、アーカンザス川を境として、上流地区と下流地区に分割した。 1763年にフランスとスペインが七年戦争に負けた結果として、フランスはルイジアナをスペインに、ヌーベルフランスの大半をイギリスに割譲した。イギリスはスペインからフロリダも取り上げた。スペイン領ニューマドリード地区には今日のジャスパー郡も入っており、アッパールイジアナでは5つの地区の最南部にあった。フランスは1800年に秘密のサンイルデフォンソ条約でルイジアナを取り戻したが、ナポレオン・ボナパルトは1803年にそこをアメリカ合衆国に売却した。 1808年、オーセージ族はアメリカ合衆国と条約を結ぶようになり、オーセージ条約で最初の土地(現ミズーリ州内)を譲渡した。オーセージ族はこの年オーセージ川沿いの故郷から、ミズーリ州南西部のジャスパー郡の地に移動した。1825年、さらにミズーリ州、アーカンソー州、オクラホマ州に跨る昔からの土地を手放した。まずカンザス州南東部のチェロキー・ストリップ、現在のインディペンデンス市の土地に移動し、1872年にはインディアン準州に移った。 ミズーリ準州ジャスパー郡を含むアッパールイジアナ領土は、1812年にアメリカ合衆国の州に昇格したルイジアナ州との混同を避けるために、1812年6月4日にミズーリ準州と名付けられ、ニューマドリード地区がニューマドリード郡となった。ニューマドリード郡のうち、セントフランシス川の西、アーカンソー郡の北で、現在のミズーリ州南西部とアーカンソー州の北西部が、1815年にローレンス郡として組織化された。 しかしローレンス郡は短命であり、3年後の1818年にはケープジラード郡の一部と合併し、ウェイン郡と改名された。1819年にはアーカンソー準州が創設され、ウェイン郡の領域もそれに採られたが、それでも現在のミズーリ州南西部、現行ウェイン郡から西のカンザス州州境と南のアーカンソー州州境の範囲に広がっていた。 1820年、ミズーリ準州が州に昇格し、1831年にはウェイン郡から分離してクロウフォード郡が作られた。この新しい分割にはミズーリ州南部の全体が含まれ、ジャスパー郡領域も入っていた。この配置も短命であり、1833年にはナイアンガ川から西のカンザス州州境までの領域が分離してグリーン郡となった。 1835年1月5日、グリーン郡の大きな部分が分離してバリー郡となった。1838年、バリー郡が4つに分割され、バリー郡、デイド郡、ニュートン郡、ジャスパー郡となった。当時のジャスパー郡は管理体制が整わず、1841年までニュートン郡に付設されたままだった。 郡の組織化1841年1月29日、ミズーリ州議会がジャスパー郡を組織化し、アメリカ独立戦争の英雄ウィリアム・ジャスパーに因んで名付けることを認める法案を成立させた。郡政府はまず郡内を3つの郡区、ノースフォーク、センタークリーク、マリオンに分割したが、その後15の郡区に分割し、現在でも法人化されないままでいる。 1841年2月25日木曜日、ジョージ・ホーンバックの家を仮の郡庁とした。これは12フィート (3.6 m) x 16フィート (4.8 m) の丸太小屋であり、スプリング川沿いカーシージからは北西に1.5マイル (2.4 km) の位置にあった。サミュエル・M・クーリー、ジェレマイア・クレイブンス、サミュエル・B・ブライトが最初の郡政委員になった。初代保安官のジョン・P・オズボーンは、恒久的な郡庁舎が建設されるまで、郡庁舎はジョージ・ホーンバックの家を使うということを大衆に知らせるという命令を受けた。 1842年3月、恒久的郡庁所在地が選定され、カーシージと名付けられた。1842年6月29日に、一階建て、一室、木造で、南面に大きなドアのある建物が完成した。カーシージの町の公衆広場北側にあった。この郡庁舎は後の1854年に完成した二階建て、レンガ造りの建物に置き換えられ、郡収監所も兼ねた。 1861年、南北戦争が始まったとき、郡内には幾つかの小さな「水車工場町」、幾つかの「鉱山キャンプ」、「9ないし10の町」(7つは区画割されていた)があった。郡庁所在地のカーシージには人口推計400ないし500人がいた。南北戦争の間、郡庁舎は病院として使われ、1863年10月に起きた戦闘中の火事で破壊された。終戦のときまでカーシージの町は住人が居なくなり、完全に破壊され、ジャスパー郡の大半が廃墟になった。1865年、州知事の命令で、郡庁舎はケイブスプリングス、現在のラサールの町近くにあった学校に移された。1890年代半ばに現在の郡庁舎がカーシージの広場に建設されるまでの数十年間、郡庁舎は郡内の幾つかの場所に暫定的に置かれていた[5]。 現在の郡庁舎は建築家マックス・A・オーループ・ジュニアが設計したリチャードソン・ロマネスク様式であり、1894年から1895年に建設された。地元の大理石を使い、タレット、塔、アーチのある中世城郭の様相である。現在はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、博物館とガイド付きツアーが公開されている。 ジャスパー郡は2001年に郡旗を採用し、郡創設160周年に公開された。この旗は郡庁舎を15の星が取り巻いており、その星は15の郡区を表している。中央の青と赤の星は、南北戦争中、1861年のカーシージの戦いと1863年の2回目の戦闘などジャスパー郡内で行われた戦闘を記念するものである。 2011年5月22日日曜日、ジャスパー郡は改良藤田スケールEF5の竜巻に襲われた。この2011年ジョプリン竜巻はアメリカ史の中でも7位に位置づけられる猛威を残した。 南北戦争以前に設立された町
地理アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は641.32平方マイル (1,661.0 km2)であり、このうち陸地639.73平方マイル (1,656.9 km2)、水域は1.59平方マイル (4.1 km2)で水域率は0.25%である[7]。 主要高規格道路
隣接する郡
人口動態
都市と町
郡区括弧内数字は郡区の人口を示す。
教育ジャスパー郡内の高等教育機関として、ジョプリン市に4年制大学であるクミズーリ・サザン州立大学がある[8]。 政治地方ジャスパー郡の地方レベルでは共和党が完全に政治を支配しており、郡の選挙で選ばれる役職を全て独占している。 脚注
外部リンク
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