高恩洪
高 恩洪(こう おんこう)は、清末民初の政治家。北京政府、直隷派に属した。字は定庵。 事跡上海電気測量学堂を卒業して、イギリスに留学する。インペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業後に帰国して、電報局の職員となり、後に徐世昌の文案(秘書)となった。 1907年(光緒33年)、インドとチベットの国境画定交渉に参加し、その後、東三省電報事宜となる。1909年(宣統元年)、郵伝部津浦鉄路局弁事員を経て、袁世凱内閣が成立した1911年(宣統3年)には、交通部秘書に任じられた。 中華民国が成立すると、高恩洪は、川漢鉄路局秘書兼漢口電報局局長となる。1914年(民国3年)、川蔵電報局局長に異動する。その翌年には、上海電料管理局局長を務めた。1920年(民国9年)9月、交通部諮議を兼任した。 1922年(民国11年)5月以降、顔恵慶、唐紹儀、王寵恵、汪大燮の各内閣で署理交通総長をつとめた。これにより、直隷派の政治家と目されるようになる。1924年(民国13年)3月、膠澳埠督弁、私立青島大学校長をつとめた翌年10月には、呉佩孚率いる十四省聯軍司令部交通処処長となった。呉佩孚の敗北とともに、高恩洪も下野して実業界に転じる。上海で自動車会社を創設した。 1928年(民国17年)、上海で死去。享年54。 参考文献
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