唐紹儀
唐 紹儀(とう しょうぎ)は、中華民国の政治家・実業家。清末民初において、革命派を支持した政治家として知られる。字は少川。娘婿に岑徳広がいる。 事績清末の活動上海の茶商人の家庭に生まれる。1874年(同治12年)、アメリカ留学児童として派遣され、コロンビア大学文科で学んだ。1881年(光緒7年)に帰国し、天津水師附設洋務学堂で学ぶ。 1885年(光緒11年)、天津税務衙門で任用された。後に、袁世凱に随従して朝鮮に赴任し、やはり税務を担当している。このとき、袁から高く評価され、1894年(光緒20年)に袁が内地に召還された際には、唐が袁の事務を代理した。 1895年(光緒21年)に唐紹儀は帰国した。まもなく袁世凱の天津で練兵を開始すると、唐は徐世昌とともにその事務を担当している。李鴻章の死後に袁が直隷総督兼北洋大臣に任命されると、唐は袁の推薦により津海関道に任ぜられた。 1904年(光緒30年)、イギリスがチベットに介入を開始したため、唐はチベットとの交渉に関する全権大臣に任命されている。交渉は2年にも及び、最終的にイギリスで条約が調印された。1907年(光緒33年)、奉天巡撫に任命されている。翌年には、北京議定書をめぐる交渉のために、アメリカへ派遣された。1910年(宣統2年)、郵電部尚書に任命されている。 孫文への接近1911年(宣統3年)、辛亥革命の際の「南北和議」では、唐紹儀は清朝側の代表をつとめた。唐は、南方代表の伍廷芳との間で積極的に交渉を進め、各省で停戦協定を次々と成立させている。しかし、この交渉の過程で、唐は共和制への転換の必要性を悟るようになる。そのため袁世凱の不興を買い、1912年(民国元年)1月2日には、唐は代表辞任を余儀なくされてしまった。 同年3月、唐紹儀は初代中華民国国務総理に任命された。さらに孫文とも親交を結び、唐自ら中国同盟会に加入している。しかし臨時大総統・袁世凱は唐に不満を抱き、その組閣に激しい干渉を繰り広げる。ついに6月、耐えかねた唐は、辞任に追い込まれてしまった。 その後の唐紹儀はいったん下野し、上海で金星人寿保険有限公司を設立して、その理事長となった。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むと、唐はこれに反対し、実際に即位すると、退位を促す電報を打っている。翌年6月、段祺瑞内閣で外交総長に擁立されたが、唐は就任を拒否した。 1917年、護法運動が開始されると、唐紹儀は、孫文側の中華民国軍政府に参加し、軍政府の財政部長に指名された。翌年5月に、軍政府が大総統制から7総裁制の集団指導制に移行すると、唐も総裁の1人に任ぜられた。1919年(民国8年)、南北和平交渉が開始されると、唐は南方政府側総代表としてこれに臨む。しかし、交渉は情勢の変化等もあって失敗に終わった。 唐紹儀は、軍政府内で新たに専横を開始した主席総裁・岑春煊と、これを擁立する桂系(旧広西派)に反発するようになる。1920年(民国9年)6月、唐は上海の孫文の下に向かい、反岑の活動を開始した。孫文らによる岑の駆逐は、同年10月に成功している。しかし、まもなく唐は孫との間で政治路線をめぐり隔意を抱くようになり、下野して故郷に隠棲してしまった。以後、南北双方の政府から、再出馬を求められたが、唐はいずれも拒否している。 西南派としての活動、非業の死国民政府成立後の1929年(民国17年)、唐紹儀は中山県訓政委員会主席となる。1931年(民国20年)5月、汪兆銘・孫科らの反蔣介石運動に加わり、汪らによる広州国民政府で常務委員に任ぜられた。 翌年1月、西南政務委員会が成立すると、唐は常務委員に任ぜられる。さらに同年3月には中山県長となった。しかし次第に広東の実力者である陳済棠と対立するようになる。1934年(民国23年)10月、陳から武力で脅迫された唐は各職を辞任し、上海に寓居した。 1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、唐紹儀は後方に移らず、上海にとどまった。また、親交のあった温宗尭から親日政権参加を勧められたが、唐はこれを拒否している[2]。 翌年9月28日に、娘婿の岑徳広が土肥原賢二を伴って唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られる[3]。しかし9月30日、日本に利用されることを恐れた軍統により、唐は自宅で暗殺された。享年79。 注参考文献
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