萬福寺
萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗の大本山の寺院。山号は黄檗山。本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で[1]、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。 歴史開山・隠元隆琦は明の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時明においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。 隠元が招かれて来日するのは明暦順治11年、日本の承応3年(1654年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。 承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津国富田(現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は明に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、明の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を江戸幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、第4代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。 寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。 黄檗宗大本山である萬福寺の建築は明時代末期頃の様式で造られ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。また、多くの仏像が来日して長崎にいた清の仏師・范道生の作であり、大陸風である。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども明朝風に行われる為、現在でも中国色が色濃く残っている[2]。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性瑫、即非如一はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。 境内伽藍は西を正面とし、左右相称に整然と配置されている。総門をくぐると右手に放生池、その先に三門があり、三門の正面には天王殿、その奥に大雄宝殿、さらに奥に法堂が西から東へ一直線に並ぶ。これら諸堂の間は回廊で結ばれている。天王殿と大雄宝殿の間をロの字状に結ぶ回廊に沿って右側(南側)には鐘楼、伽藍堂、斎堂があり、左側(北側)には対称的な位置に鼓楼、祖師堂、禅堂が建つ。これらの建物は日本の一般的な寺院建築とは異なり、明末期頃の様式で造られ、材料も南方産のチーク材が使われている。「卍字くずし」のデザインによる高欄、「黄檗天井」と呼ばれるアーチ形の天井、円形の窓、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、日本の他の寺院ではあまり見かけないデザインや技法が多用されている。これらのほか、三門 - 天王殿間の参道を左(北)に折れたところに開山の塔所である松隠堂と呼ばれる一画があり、開山堂、舎利殿などが建つ。 代表的禅宗建築群として、主要建物25棟、廻廊、額、聯などが国宝・重要文化財に指定されている。
塔頭
寛文11年(1671年)創建。寛文13年(1673年)移転、1875年(明治8年)現在地に移転。江戸時代、経文が少なく高価であったため、黄檗山第2代目住職木庵の弟子である鉄眼道光が喜捨を募り、隠元禅師が持ってきた一切経を彫刻師に彫り写させた版木4万8千枚余が重要文化財・黄檗版大蔵経(鉄眼版)として保存されている。この版木の字体である明朝体は、現在の活字の見本となっている[6]。また、版木は原稿用紙のルーツともいわれている。 また、2022年からは寺そばとしてラーメンを提供している[7]。
文化財国宝重要文化財
京都府指定史跡
京都府指定有形文化財
主な行事
歴代住持隠元は、中国僧が萬福寺住持を務めるべきと考えており大老酒井忠勝もこれに同意したことから、初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持を占めた。しかし、時が経つうちに渡来する中国僧が少なくなり、第14代・第16代・第17代・第19代と第22代から第60代(2007年(平成19年)7月時点)まで和僧が住持[12]となっている。 →詳細は「黄檗宗 § 黄檗法系略譜」を参照
禅の研修青少年文化研修道場境内に隣接して一般向け研修施設の青少年文化研修道場を有しており、一般人の坐禅などの修行体験を受け付けている(公式サイト参照)。 また同施設は競走中に違反行為を重ねた競輪選手のペナルティ(「特別指導訓練」と称する)やデビュー前の新人選手に対する研修[13]の会場として使われている。特別指導訓練では5泊6日の期間で行われ、期間中は連日座禅や境内清掃などの過酷な修行が行われ、食事は精進料理のため質素、かつ自転車の練習はもとより携帯電話の持ち込み不可、外部との接触も禁じられるため、選手からは「お寺行き」として恐れられている[14][15]。 禅寺特訓道場経営コンサルティングや社員教育ポスターの販売を主業務とするモチベーション・アップ株式会社[16]と提携し、「禅寺特訓道場」と称した社員教育を請け負っている[17]。 禅大学坐禅やヨガ、書道、華道、禅僧による講演などからなる、年10回の連続講座「黄檗山禅大学」が教学部によって、2009年より毎年開催されている[18]。 前後の札所交通脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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