紋別駅
紋別駅(もんべつえき)は、北海道(網走支庁)紋別市幸町4丁目にかつて存在した、北海道旅客鉄道(JR北海道)名寄本線の駅(廃駅)である。事務管理コードは▲122118[2]。 歴史名寄本線では最大規模の構内を有した駅で、同線の中間駅としては唯一、みどりの窓口も設置されていた。札幌駅から名寄駅経由で当駅まで直通する急行列車「紋別」・網走駅 - 紋別 - 興部駅間の急行「天都」も設定されていたほか、渚滑線の列車の多くが当駅まで乗り入れていた。 また、1943年(昭和18年)から1948年(昭和23年)の短い期間であるが、南西方向の藻鼈川上流の鴻之舞鉱山から、簡易軌道の鴻紋軌道が本駅裏に駅を設けて接続していて、人や物資を運んでいた。
駅名の由来→「紋別市 § 市名の由来」も参照
市名より。 駅構造廃止時点で、単式ホーム・島式ホームを複合した計2面3線のホームと線路を有する地上駅であり、列車交換可能な交換駅であった[5]。互いのホームは、駅舎側ホーム北側と島式ホーム北側を結んだ跨線橋で連絡した[5]。駅舎側単式ホーム(東側)が下りの1番線、上屋を有した[6]島式ホーム駅舎側が上りの2番線、外側が1983年(昭和58年)時点では側線扱いの3番線となっていた[5]。3番線の外側(西側)に旧貨物側線を2線有し、そこから行き止まりの側線も南北に各1線有した[5]。そのほか、1番線の遠軽方から分岐し駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を2線有していた[5]。 職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置し単式ホーム中央部分に接していた[5]。ホームの有効長は120mあった[5]。士別駅と同規格のコンクリート製の駅舎であった。 「わたしの旅スタンプ」が設置されていた[5]。 利用状況乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
駅周辺
駅跡地の再開発廃止後も駅本屋ではJR紋別トラベルセンターが引き続き窓口営業を行った[9]ほか、夏季の観光シーズンには駅周辺の中心市街地商業者でつくる紋別朝市運営協議会が駅駐車場やホームを会場にした観光朝市「ガリンコ朝市」を開催した[10]。また1990年に紋別市は、中心市街地活性化をにらんだ大型ショッピングセンターやバスターミナル建設構想を盛り込んだ再開発計画を策定。翌1991年には通商産業省の商業集積整備プロジェクト道内第1号に指定され、事業主体の第三セクター「紋別ニューシティ開発公社」が発足した[11]。 紋別市は駅跡地から南方の鉄道跡地を市道「メモリアル通り線」として再整備し、1995年には機関車の動輪を模した記念碑を建立。同年7月には、バスターミナルなどが入る紋別市交流センターがオープンした[12]。しかし駅跡地の大半を占めるショッピングセンター計画については、バブル崩壊後の景気低迷と見通しの甘さから方針が二転三転するなど迷走した揚げ句、市は1998年に建設断念を正式に決定した[13]。 のちショッピングセンターの代替施設として2003年、観光商業施設と温浴施設を併設したオホーツク氷紋の駅が開業[14]。施設正面には鴻紋軌道の記念碑が設置され、同軌道をモチーフにヒット曲「銀色の道」を作曲した作曲家、宮川泰を招いて除幕式が行われた[15]。 紋別市交流センター紋別市交流センターにはバスターミナルが併設され、道北バス案内所では旭川・札幌方面の予約発券、紋別旅行(「ハートフルツアー」紋別旅行店)では旅行代理店業務[16]のほか、北紋バスの乗車券類を取り扱う。2階は紋別観光協会や紋別振興公社がテナントとして入居している。
隣の駅脚注
関連項目外部リンク
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