社会大衆党
社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう、旧字体:社󠄁會大衆󠄁黨)は、昭和初期の日本に存在した無産政党[1]。結党は1932年(昭和7年)7月である[5]。略称は社大党。 概要戦前の無産政党は長く離合集散を繰り返していたが、1931年7月に労農党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成された。これがきっかけとなり、さらに1932年7月24日に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された(安部磯雄委員長・麻生久書記長)[6]。こうして、無産政党の統一が実現した。当時二大政党制の立憲政友会と立憲民政党に対する、いわゆる「第3極」であったと言える[7]。 ただ当初、党内は均質でなく、1933年(昭和8年)に党政策委員会が打ち出した「転換期建設政策」、1934年(昭和9年)の陸軍パンフレット問題などを通して、麻生久ら主流派が主導する連軍方針が強化された[5][注釈 1]。 1934年10月1日に陸軍省新聞班が発表した「国防の本義と其強化の提唱」では、作成に亀井貫一郎が関与しており、麻生は連軍方針を打ち出すきっかけとして積極的に支持したが、党内に波紋を投げかけた(陸軍パンフレット問題)[5]。 1937年に行われた総選挙で第3党に躍進する倍増の38名当選の成果を得たが、同年の日中戦争勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領[9]を制定。1938年の党大会では新建設大綱が決定され、全体主義を原則とした[1]。 1938年の党大会決議前、麻生は亀井のほか、秋山定輔、秋田清らとともに近衛新党運動を画策したが失敗しており、旧日本労農党系の党内優位を図るためともみられた[10]。 その後に具体化した中野正剛による東方会など幅広い党派での合同運動の構想では、国民同盟が構想から離脱した後も残り、常任中央執行委員会で東方会との合同実現を基本方針とすることを承認した[10]。社会大衆党と東方会は合同して「全体主義単一国民政党」の結成を試み、その結成大会の開催が1939年2月に予定されるまで話が進んでいたが、実現には至らなかった[11]。その背景には社会大衆党内で旧日労系(旧日本労農党系)が主導して議論が進み、社民系(旧社会民衆党系)が人事問題で反発したことなどが挙げられ、安部磯雄の不参加表明で合同構想の破綻は決定的となった[10]。 1940年(昭和15年)には斎藤隆夫の反軍演説への対応をめぐって再度対立が表面化した[12]。同年3月7日の斎藤に対する懲罰動議では、党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎、鈴木文治ら10名が反対。斎藤の除名が党議として決定した後も、除名を討議する代議士会に欠席・棄権した[13]。これらの旧社民系(旧社会民衆党系)の議員に対し、麻生久や三宅正一は除名を主張し、10名に対して離党勧告を行った[12](うち8名が除名処分となった[要出典])。同年4月27日の党中央委員会で、麻生久を委員長、三輪寿壮を書記長に選任し、旧日労党系(旧日本労農党系)の人々が党内の主導権を掌握した[12]。 1940年7月6日、近衛新体制での主導権を確保するために解党大会を開いて自発的に解党した[5][12]。 戦後第二次世界大戦後に結成された日本社会党の源流の一つとなり、戦前に社大党選出の代議士であった三輪寿壮・河上丈太郎・西尾末広・浅沼稲次郎が戦後には社会党幹部となるなど、人脈的につながりがある。また、戦前の社大党系は戦後の社会党では右派に属し、1960年に社会党から民社党が分裂した際には、民社党に移った者も多い。 政策スローガン(社大党第六回大会時) 綱領(転向後、追加された新綱領) (改訂、追加された新綱領)
脚注
参考文献外部リンク
|