益田氏
益田氏(ますだし)は、武家・華族だった日本の氏族。石見益田を本拠としていた武家。本姓は藤原氏といわれる。はじめ浜田の御神本に居館を構えたことから御神本氏(みかもとし)を称した。後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門須佐を領した。維新後華族に列し男爵に叙される。一族の通字は「兼」。家紋は「上り藤に久の字」。 歴史中世初代は藤原忠平の9世の子孫、石見守藤原国兼といわれる。国兼の先祖は藤原実頼とも藤原真夏とも(この場合は藤原実綱の孫)される[2]。国兼の父は、有隆とも久通とも有定ともされる[3]。永久2年(1114年)、石見に赴任するために下向。任期終了の永久6年(1118年)以降も石見に留まり続け、そのまま土着豪族化した。その際、石見上府(浜田御神本)に拠点を構え、御神本氏を称した。系図によっては、地域の有力者とする史料もあることから、地元の有力者との婚姻関係を結びながら土着化していったと考えられている[4]。 国兼の子は、系図によって兼実・兼真・季兼と名前が異なっている。益田氏の出自に関して、藤原季兼と名前を共にする、1153年〜1157年にかけて石見国司であった源季兼との関係が指摘されている。季兼の女は藤原資長との間に兼光を生んでいるが、益田氏の系図で祖とされる国兼の従兄弟にあたる藤原実光の子が資長である。益田氏が国兼を藤原氏系図の中に位置づけた際に、季兼との関係も影響したため、益田氏一族が「兼」の一字を通字としたのも季兼との関係があると考えられる[3]。 3代兼栄、4代兼高の代で益田氏は石見に有力武士団を形成した。兼高は石見の在庁官人として石見における地位を確立し、あわせて石見押領使に補任された。また、兼高の代で居館を益田に移し(建久9年、1192年)、これ以降益田氏に改める。なお、兼高の次男の兼信は三隅(みすみ)氏を名乗って分家三隅氏を、三男の兼広が福屋(ふくや)氏を興す。三者は一族を同じにする者として氏神御神本大明神の祭礼を共同で行うなどしていた。一般的には益田氏を御神本氏の惣領家とすることが多いが、三隅・福屋氏の系図史料が不足していることから、御神本一族惣領が益田氏であると断定するには至っていない[4]。 5代兼季は石見の莫大な所領を子らに分封した結果、周布氏・末元氏・丸茂氏・多根氏などの庶流が生まれた。 南北朝時代になると益田宗家は北朝方、三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた。 観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内弘世と共に中国探題であった足利直義方に付いた。その後直義方が劣勢になると大内氏は足利尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。応仁の乱で益田兼堯・貞兼父子は大内政弘に従い石見で大内教幸や吉見信頼の反乱を鎮圧して石見の勢力を伸ばし、益田宗兼・尹兼父子は大内義興に従軍して永正5年(1508年)に上洛するまでになった。 天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢ら重臣の謀反で討たれると、益田藤兼は晴賢と縁者の立場から晴賢主導の大内氏に従った。しかし、天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が毛利元就に討ち取られると藤兼も翌弘治2年(1556年)に元就の次男・吉川元春に益田領へ攻め込まれ、翌3年(1557年)に降伏、以降は毛利氏に従属することとなった。 近世子の元祥も引き続き毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いでの毛利氏の減封に従い、元祥も石見益田を離れて長門国へ移った。以後、益田氏は長州藩の永代家老として毛利氏に仕え、長門須佐1万3000石を知行した[5]。 寄組には問田益田家など分家三家もあった。幕末の当主益田親施(右衛門介)は、禁門の変の際に長州軍の指揮を執り、第一次長州征伐の際に切腹に追いやられた。徳川幕府滅亡後、親施には明治天皇より正四位が追贈されて名誉回復された[6]。親施の子益田精祥にも軍功があった。同時代の長州藩士である周布兼翼(周布政之助)も前述の周布氏の一族出身である。 明治以降親施の子益田精祥は、維新後当初は士族に列した。明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)では旧万石以上陪臣家が男爵に含まれており、益田家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣家は授爵対象外となったためこの時点では益田家は士族のままだった[5]。 明治15年・16年ごろ作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、精祥について所有財産を旧禄高1万3000石、所有財産および貧富景況は空欄、職業は無職と記している[5]。 明治33年(1900年)5月9日、精祥について、旧万石以上陪臣家、かつ華族の体面を維持できるだけの財産も保持していることが認められて華族の男爵に叙された[5]。その後、精祥は別格官弊社豊栄神社御用掛を務めた[7]。 その子兼施の代の昭和前期に益田男爵家の住居は東京市渋谷区青葉町にあった[7]。 現在も子孫は萩市須佐には在住せず、東京都内に在住している[8]。 系図
その他の益田氏上述した石見の益田氏の他にも、益田の名字を名乗った家系がいくつか存在する。
脚注
参考文献
系譜参考
関連項目 |