益田尹兼
益田 尹兼(ますだ ただかね)は、戦国時代の武将。石見国の国人である益田氏の第18代当主。幼名は熊童丸。通称又次郎[1]。官位は越中守[1]。父は益田宗兼[1]、母は陶氏の娘。子に益田藤兼[1]。 生涯石見国の国人である益田氏の第17代当主・益田宗兼の子として生まれる。 永正5年(1508年)の大内義興の上洛に父・宗兼と共に従う。永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参戦し、父の戦功により足利義尹(後の足利義稙)から「尹」の偏諱を賜り、「尹兼」と名乗った。しかし、在京中に三隅興兼が石見西部へ攻め入ったため、父に先立って帰国し、永正15年(1518年)まで交戦した。 大永6年(1526年)に出雲国から石見国へ侵攻した尼子経久を迎え撃ち、翌大永7年(1527年)には毛利元就や天野興定と共に安芸鳥子城を攻め落とした。享禄3年(1530年)には吉見頼興と高津川の支流匹見川の水域に関する協定を結んだ。 天文13年(1544年)に嫡男・藤兼に家督を譲り、以後20年に渡って藤兼を後見した後、永禄8年(1565年)9月3日に死去。法名は桂香院殿全屋尹兼大居士[1]。 脚注参考文献
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