入間郡![]() 人口82,402人、面積89.79km²、人口密度918人/km²。(2024年11月1日、推計人口) 以下の3町を含む。 郡域上記の3町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。高麗郡から編入された地域は当該項目を参照。 以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。
以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。
古代から近世まで7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている[2](所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。 古地名和名類聚抄に6郷および郡家郷と余戸郷が記されている。比定は日本歴史地名大系による[3]。
近代以降近代以降の沿革
幕末の知行
町村制以降の沿革町村制施行時の4町46村
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変遷表自治体の変遷
行政
脚注
参考文献
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