潘恵子
潘 恵子(はん けいこ、1953年4月5日[6][11] - )は、日本の声優、女優、西洋占星術師。ジャストプロ所属[7]。娘は声優の潘めぐみ[8]。 経歴生い立ち1953年、東京都港区新橋生まれ[5][11]。台湾の籍を持つ[5]。実際の生誕日は3月19日だが[12]、出生時に生死をさまよい出生届が遅れたことで、誕生日は4月5日となった。 父はスペインポルトガル系中国人、母は大阪府出身の日本人[5]。3人の姉がいる末っ子[2][3]であり、幼少期は「チャキチャキの江戸っ子で鮨屋の看板娘」だったという[5]。 赤子の頃から自分の笑顔で皆が喜んでもらえる嬉しさを感じていたといい、芸能関係の仕事を志したきっかけは、3歳の頃から始めていたファッション誌の表紙モデルであった[13]。母に連れられて演劇を見た帰りにカメラマンから声をかけられ、始めたという[13]。だが、この活動は小学校に進学後、担当カメラマンの変更や学校側が禁止したことを理由に休止することとなった[13]。一方、小さい頃から話すことは嫌いで、朗読も嫌いなど口のまわらない子供であった[2]。 小学校から女子校に通っていた[2]。中学時代、六本木のパン紙粘土の店でアルバイトしており、髪の毛や毛糸のクズを切り刻んで、それにポスターカラーとニスを塗ったものを作り、それを売り出していた[12]。その時は1個70円で売っていたが、何か月かで何十万も稼いだという[12]。絵も好きであったが、美術の時はいつも教師に「大変上手くセンスもある。だけど作るものが小さい」と評されていた[12]。 高校時代は人前で立って読んだりするのが嫌で、喋ることが苦手であった[3][12][13]。国語の教科書の朗読が難しく、旧約聖書などの時は真っ赤になり、時には休んでいた程であった[3][12][13]。友人から「セリフ無いから」と誘われ、演劇部に参加[3][12][13]。高校2年生の時に、演劇部の人物に「あれは喋らなくってもいいからやってみない?」と誘われて演じたのは、小学1年生の時に来日し講演を聞いたことがあったヘレン・ケラー[3]であり、これがきっかけで役者を目指す[2][13]。高校生で劇団四季を受けていたが落選し、他にも色々な劇団を受けていた[2]。しかし親から「大学だけはどうしても行って欲しい」というため、東洋英和女学院を経て[3][5]、日本大学藝術学部演劇学科[14]に進学したが、芝居をほとんどやらせてくれなかったという[2]。 キャリア大学に進学したのとほぼ同時に水森亜土の魅力に惹かれて、内海賢二の所属する劇団未来劇場で舞台女優として活動[2][5][15]。友人の勧めで「面白い劇団があるから、受けてみたら?」と言われて、研究生試験を受けて入団したという[16]。高校時代は絵も描いていたことから、当初は舞台美術の方をしたかったという[12]。水森のコケティッシュな絵がとても好きであったことから、「水森本人に見てもらおう」と思いスケッチブックを多数抱えて行ったが、当時の水森はちょうどメキシコに行っていたため会えなかった[12]。初舞台は『ムッシュランバンの哀しい悲劇』[5][6]。その初舞台の時に内海の相手となり、それがきっかけで声優の世界に繋がりを持つようになった[2]。内海・野村道子夫妻に誘われたことを機に、テレビ番組・映画への出演や声優業も行うようになる[15]。その時は二足のわらじを履き、寝る暇もなく大学と劇団を行き来しながら舞台の勉強をしていた[16]。3年経ち、少し疲れて弱気になり、内海に「劇団も芝居もやめます」と相談していた[16]。しかし内海が「スタジオに見学に来てごらん」と出演していた海外アニメの吹き替えのスタジオに誘ってくれたことで、声の仕事を知り声優になったきっかけとなる[16]。その時に神谷明や、当時新人だった玄田哲章と初対面した[16]。その時の内海はとても楽しそうで、ジョークを言って皆を笑わせ、和ませていたという[16]。スタジオでの収録が終わり、皆での飲み会でも内海がその場を盛り上げ、潘にも気を使い、皆に紹介するなど楽しませていた[16]。内海が飲みながら力強く「どんな小さな場所でも光ってるやつはいるんだ!光らなくちゃ」、「一生懸命やっていれば、見てる人は必ずいるんだ!頑張れよ!」と語り、潘は「こんな楽しい世界があるんだ……」と思った[16]。その矢先、内海の妻の野村から「賢ちゃんから聞いたんだけど、お芝居やめちゃうの?声の仕事をやってみない?」と電話をもらい、何かに引っ張られるように内海夫妻について行ったという[16]。 当時は舞台と声優の演技は全然違うという風潮があったが、潘は全く苦にしなかったという[17]。 声優として所属は青二プロダクション[18][注 1]、81プロデュース[19]、ネヴァーランド・アーツを経て、現在はジャストプロ所属[7]。 1977年、『サザエさん』でアニメ声優としてデビュー[6][10]。同年には、『超人戦隊バラタック』のユリ役で初レギュラーを獲得した[20]。また同年、日本アニメーション製作の『女王陛下のプティアンジェ』(アンジェ役)で初主演した後、『機動戦士ガンダム』(ララァ・スン役)や、1980年代には『世界名作劇場』シリーズに出演する[20]。 『機動戦士ガンダム』出演当時、ニューヨークで1週間の滞在期間中にブロードウェイの舞台を8本観劇。その内容にショックを受け、自分の芝居に「もう無理!」と感じたといい、自分に何ができるか考えてた結果、声の仕事に専念するようになった[15]。内海賢二と来宮良子を、育ての親と呼んでいる[21]。 元祖アイドル声優[21]として、歌手としても活動、主題歌を担当した作品もある。また、クイズ番組やテレビドラマなどにも出演していたこともある。1980年代前半には、女性声優の人気投票で度々1位を獲得していた。 特色・人物私生活では、一度目の結婚の後に一人娘のめぐみを出産し離婚。後に再婚している。 古谷徹とは共演が多く、古谷の口から「たくさんの作品で相手役を含めやらせていただいた」と語られている[23]。 エピソード『セーラームーン』第1作では、正義側のルナと悪役のクイン・ベリルの両方を演じていたが、連続して登場する際にとっさの切り替えが難しかったと語っている。直前に登場した役の声のまま、もう片方の役を演じてしまい、NGになったことも多いという(『セーラームーン』LD収録のインタビューにて)。当時の事を振り返り「失敗しても悔やんでいられない。でも凄く前向きな性格になれた」と語る[21]。天王はるか役の緒方恵美とは初の共演であり、その演技力には「後輩と呼びにくい」「鳥肌が立った」と評している[24]。 サザエさん『サザエさん』では、1977年に主婦役で出演しアニメデビュー作となる。初めてのセリフは「大根、おいくらですか?」だった[25]。 1978年からは、サザエさん一家の隣人である浜みつ子役を担当。1985年にみつ子が引っ越しという形で作品に登場しなくなってからは、新たに隣人となった伊佐坂ウキエ役を担当し、めぐみを出産する1989年に降板するまで約11年間レギュラー出演した[24]。 なお、出演は初めから決まっていたわけではなく、最初は事務所の先輩でワカメ役の野村道子に頼み込む形で、勉強のため収録スタジオを見学するだけだった[24][10]。見学を快諾したディレクターの岡本知は、当時の潘が新人であることから、厳しい現場を目の当たりにして二、三回の見学で諦めると思っていたという[10]。だが、潘はその後も約半年にわたり休むことなくスタジオを訪れたといい、いつも副調整室の片隅で出演者をつぶさに見る姿に感銘を受けた岡本が関係者に「あの子にそろそろ何か役をつけてあげよう」と提案したことで出演が決まったという[10]。 世界名作劇場『世界名作劇場』シリーズでは、1980年の『トム・ソーヤーの冒険』(ベッキー役)が初出演となる。『トム・ソーヤー』のベッキー役を、「自分に似て不器用なところがあり、今でもとても思い入れのあるキャラクター」と語る[18]。 この『トム・ソーヤー』で、服部克久から「歌ってみて」と言われて挿入歌『恋するベッキー』を歌ったが、それがそのままシングルとなった。その際、ポニー・キャニオンから当時所属していた青二プロダクションへ「歌手にならないか?」と誘われ、翌1981年の『家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ』では、声優としての出演はなかったものの、歌手として主題歌・ED曲を担うことになり、歌手活動を開始。 1983年には、『アルプス物語 わたしのアンネット』(アンネット役)で単独主演を果たし、主題歌・EDも担当。1986年から1988年にかけては、『愛少女ポリアンナ物語』(ナンシー役)、『愛の若草物語』(メグ役)、『小公子セディ』(ハートル役)と3年連続シリーズに出演している。このうち、『愛の若草物語』では主人公姉妹の1人を演じ、他の姉妹役声優3人と共に、キャラクターとして2代目主題歌(元々は挿入歌として作られたもの)も歌った。 このように、声優業・歌手業の双方で深い繋がりを持ったが、特に複数での担当を含めた主題歌担当歴3回は、4度の大杉久美子に次いで2番目の多さとなる。これらからシリーズの話題の際には、山田栄子、堀江美都子、中西妙子、吉田理保子らと共に、「名劇を代表する声優の1人」として名が挙がることが多い。 現在では、『世界名作劇場』のようなシリーズが放送されなくなってしまったことを「寂しい」と語り、「主題歌でもたびたびかかわってきたシリーズだったので思いいれもひときわあった」と語っている[18]。 ララァ・スン『機動戦士ガンダム』のララァ・スン役は、「重要な存在」「自身にとって大きな存在」と語り[26]「ララァ以外の役だったらどの役をやりたい」との質問には、「やはりララァがいい」と答えている[26][27]。ララァはオーディションなしで役をもらったという[4]。 「『ガンダム』は“舞台”だと思ってやっていた」と回想しており[21]、ララァの役作りは、イセリナ役の後に期間を置いてから呼ばれ「左遷されたシャアの連れてきた女ということで、シャアのことだけは知っておけばいいという感覚だった」と語る。オーディションのとき、「想像力が豊かで人の心が読めるキャラ」といわれてララァをやることになったが、突然ニュータイプ云々となり「解釈がムズカシクテたまらなかった」と当時のインタビューで述べている[28]。人物設定のバックボーンがなく、潘自身がララァの額の赤い印(ビンディ)から「インドの難民でルーレットのアテ師になろう」 と考えて演じていたとのこと。これを安彦良和に話したところ、後に『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』内でその設定が反映されて描かれている[27]。 CafeSta 馳ミュージアム(2014年11月17日配信分)にて当時のアフレコによる手当が1回5,000円と公表した。 機動戦士ガンダムの公式パロディアニメ『ガンダムさん』では、娘のめぐみがララァ・スンを演じ、親子二世代で同じキャラクターを演じている。なお、潘自身もナレーションの一人で出演し、親子共演作ともなっている。 GACKTのファンであり、シャア・アズナブル役の池田秀一がGACKTと直接の知り合いであると知った際、池田に「会わせてほしい」とねだった。だが、池田が難色を示したため「あの時助けてあげたのに!」とララァがシャアを庇って落命したことを持ち出し、結果、池田は渋々GACKTに電話をしたという[29][26]。 西洋占星術師としての活動西洋占星術師としての顔もあり、著作も多数。潘杏蘭(はん・きょうらん)のペンネームで『アニメージュ』で星占いのコーナーを連載していた時期もある。現在は、『ガンダムエース』誌上(ララァの占星術占い)と自動車雑誌『カー・アンド・ドライバー 日本版』誌上に占星術のコーナーを掲載、アニメでは『家庭教師ヒットマンREBORN!』のおまけコーナー「来週の星座占い」の占いを受け持っている。 占いを始めたのは、以前出会った占星術師の流智明の星の話に興味を持ったことがきっかけで、流の学校に通うようになった。弟子入り後一年経たずして、一緒に本を出すようになったとのこと[19]。 その他娘のめぐみ共々中川翔子と交友がある。 潘家のカレーライスにはジャガイモが入っておらず、その代わりポテトサラダが添えられている[30]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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