桜井の別れ桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井駅(桜井の駅、さくらいのえき)で、楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ、桜井の訣別ともいう。 古典文学『太平記』の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であった。 「駅」とは宿駅のことで、711年(和銅4年)に摂津国島上郡(現在の大阪府三島郡島本町)に置かれた大原駅であるともいわれている。 概要伝承『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。 建武3年5月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。 その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。 考証延元5年/暦応3年(1340年)に正行自身が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆が記されたことによって、当時の正行はすでに左衛門少尉の官職に就いており、年齢はすでに20歳前後だったという説が古くからあり、近年にも作家の井沢元彦が著書において[1]、忠臣を称える宋学の立場から正行の年齢を11歳に設定にしたという説を展開している。また桜井駅の別れそのものを創作とする向もあり、早くも明治初年に重野安繹がこれを唱えている。 題材にした作品脚注
関連項目外部リンク
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