柏農山勝栄
柏農山 勝栄(はくのうざん しょうえい、1923年7月6日 - 1958年5月16日)は、青森県南津軽郡大光寺町(現役当時、現・同県平川市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は高木 勝栄(たかぎ しょうえい)。最高位は西前頭21枚目(1948年5月場所)。現役時代の体格は173cm、86kg。得意手は左四つ、寄り、吊り[1]。 来歴16歳の時上京し、元大関・朝潮が率いる高砂部屋へ入門。1940年1月場所で初土俵を踏んだ[1]。因みに、当初より四股名は、「柏農山」であった(以後は「國錦」を名乗った事もあったが、すぐに元の「柏農山」へ再改名している)。 体重90kgに満たない小兵で、身長もあまり高くなかったが、そうした身体上のハンディを克服して順調に出世。序ノ口に付いて約5年の1945年6月場所にて、新十両に昇進した。 だが、同場所直前に応召され、短期間ながら日本軍の一員として第二次世界大戦に参加。戦場から帰還後もスムーズに番付を上げてゆき、1948年5月場所で新入幕を果たした[1]。 左四つからの寄りや吊りを得意とし、俊敏な取り口で勝ち身も速かったものの、幕内では体の小ささも災いしてか苦戦。4勝7敗と大きく負け越して1場所で十両へ逆戻りし、以後、2度と幕内に復帰できなかった[1]。 現役晩年は酒により健康を害した事もあって休場がちとなり、幕下2枚目まで番付を落として1949年5月場所後、25歳で引退を表明。新入幕から、僅か1年後の事であった[1]。 引退後は日本相撲協会に残り、年寄・芝田山として後進を指導していたが、1952年5月場所を以って元前頭3枚目・大ノ海に名跡を譲渡し廃業した。 その後も酒が過ぎて健康はすぐれず、1958年5月16日に病のため亡くなった。享年34[1]。 主な戦績
場所別成績
幕内対戦成績
※1945年の夏、秋場所は、応召のために出場していない。同年秋場所での番付上の扱いは、東十両の番付外。復帰した1946年秋場所の番付では、帰還別格扱いとなり、東十両の番付外で出場した[2]。 改名歴
年寄変遷
脚注関連項目 |