李 弘[1](り こう、? - 370年)は、中国五胡十六国時代の農民反乱の首領。広漢郡の人。
生涯
成漢の末代皇帝李勢の子であると称し、流民数千人を集めて定陵を荒らし回った。
太和5年(370年)8月、蜀の李金銀や巴西の趙続伯らは共に李弘を盟主に推し立てた[2]。李弘は聖道王[3] を号して年号を立てて鳳凰とし、百官を独断で任じて民を混乱させた。この時、1万を超える兵を従えていた。益州刺史周楚は孫の梓潼郡太守周虓を討伐に向かわせた。李弘は迎撃するも敗れ、乱は鎮圧された。李弘の生死は不明である[4]。
脚注
- ^ 『十六国春秋』では李洪と記載される
- ^ 『十六国春秋』によると、益州刺史劉季連が巴西の民心を掴んでいないのを見て乱を起こしたとあるが、『晋書』および『資治通鑑』では当時の益州刺史は周楚となっている。
- ^ 『資治通鑑』では聖王を号したとされている
- ^ 『十六国春秋』では劉季連に敗れて討ち取られたと記載されている。
参考文献