暗越奈良街道暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、大坂(難波)から生駒山地の暗峠を越えて奈良(平城京)に至る街道であり、奈良街道、伊勢参宮街道の一つである。奈良側の呼び名は暗越大坂街道である[1]。 奈良市三条町から生駒市西畑暗峠までの約13.3キロメートル区間が、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」の一つに選定されている[2]。また、奈良県区間の大部分と大阪府区間の一部が現在の国道308号と重複する。 概要→「国道308号」も参照
難波から東進、箱殿で東高野街道と交差し、生駒山中を上り標高455メートルの暗峠を越えて大和国へと入り、生駒谷と榁木峠を経て道はやがて奈良へ至る[3]。 大坂側の起点は古来玉造または中道村の二軒茶屋[4]だったが、1876年(明治9年)の里程元標設置時に高麗橋東詰へと移された[5]。 街道の中間付近にあたる暗峠から生駒谷への道は急斜面の坂道である。奈良側の終点は現在の奈良市三条町にあたる三条口で三条通りへと接続した[6]。江戸時代に脇往還として整備され、往来も盛んで沿道は郡山藩の本陣や旅籠、茶店が建ち並んでいた[7][8]。1890年(明治23年)湊町駅・奈良駅間に大阪鉄道(現在の大和路線)が開通後は賑わいも寂れた[9]。 歴史→「暗峠」も参照
奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。この時代は、防人や唐・朝鮮の外国使節もこの道を通って平城京と行き来した[3]。『五畿内志』では南都道と表記されている。 江戸時代には大名の参勤路にもなっており、大和郡山藩の本陣が暗峠の村におかれた他、江戸時代後期には庶民の伊勢参宮道としても利用された[3]。 近世までの起点は玉造で、安堂寺橋通に直結していた。明治時代に道路元標の置かれた高麗橋東詰に起点が変更された。 玉造の東隣に位置する東成郡中道村(現・東成区中道)の村名は暗越奈良街道に由来すると言われている。 大正時代に大阪 - 奈良間に鉄道を敷設する際のルート案のひとつとして、この街道を沿う形でケーブルカーを設置する案があった。採用されたのは、峠の少し北側の生駒山腹に長大トンネルを掘るという案で、現在の生駒トンネルとなった。 現在は国道308号および大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線がこの街道をほぼそのまま踏襲している。 沿線
交通アクセス脚注参考文献
関連文献
外部リンク
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