早川和夫
早川 和夫(はやかわ かずお、1960年5月17日 - )は、栃木県下都賀郡壬生町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 来歴・人物栃木商業では3年次の1978年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進むが、真岡高に敗退。 高校卒業後は1979年に国士舘大学へ進学し、東都大学リーグでは1年次の同年秋季で初優勝を経験するが、自身の活躍の場は無かった。その後は二部との降昇格を繰り返すが、4年次の1982年春季には二部でMVPと首位打者を獲得。一部(4季)通算29試合に出場、90打数17安打、打率.189、0本塁打、5打点。 大学卒業後は1983年に三菱重工横浜へ入社し、1984年の都市対抗に日本鋼管の補強選手として出場。前川善裕らと共に打線の主軸となり、神戸製鋼との1回戦で本塁打を放つなど活躍。山岡政志(日本石油から補強)と古川利行の好投もあって決勝に進むが、日産自動車との乱打戦の末に9-10で敗退。準優勝にとどまる[1]が、この試合でも4安打を記録し、打率.647で大会首位打者を獲得。 1984年のドラフト3位で日本ハムファイターズに入団。即戦力の外野手と期待され、1年目の1985年は6月22日の阪急戦(後楽園)6回裏に白井一幸の代打で初出場を果たし、今井雄太郎から初打席初安打を記録。7月4日の南海戦(大阪)では7番・左翼手として初先発し、同14日の阪急戦(西宮)2回表に山沖之彦から初打点を記録。3年目の1987年には5月31日の南海戦(大阪)では開幕以来初の先発で5打数5安打し、これをきっかけに右翼手の定位置を得ると、6月5日の西武戦(後楽園)1回裏には東尾修から初本塁打を放つ。同年は57試合に先発出場して打率.278の好成績を記録し、1988年も開幕からレギュラーとして起用されるが、打撃面で振るわず五十嵐信一にポジションを奪われた。1990年に投手の田中幸雄と共に藤王康晴、小松崎善久との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。1年目には3試合に2番打者として起用されるが、その後は代打が主となり、1993年限りで現役を引退。 引退後は中京テレビ野球解説者(1994年 - )の傍らトレーニングを学び、中日でトレーニング担当(1996年)→二軍フィジカルコーチ(1997年 - 1999年)→一軍フィジカルコーチ(2000年)、二軍トレーニングコーチ(2003年)→外野守備・トレーニングコーチ(2004年 - 2005年)→守備兼トレーニングコーチ(2006年)→外野守備・走塁コーチ(2007年)、二軍育成コーチ(2008年, 2012年 - 2013年)、野手コーチ(2009年 - 2011年, 2014年 - 2015年, 2017年 - 2018年)、二軍守備コーチ(2016年)を務めた。 中日コーチ時代の2010年には6月4日から一軍野手コーチに昇格し、一塁ベースコーチも二軍内野守備・走塁コーチに転じた風岡尚幸一軍内野守備走塁コーチに代わって返り咲いた。2011年途中からは三塁ベースコーチに配置転換された辻発彦一軍総合コーチに代わって、ベンチ専従となり落合博満監督の横でサイン伝達を担った。 2013年10月4日に球団から2014年シーズンの契約を結ばない事が発表された[2]ものの、同22日に2014年は一軍野手コーチに転じる[3]ことが発表された。 2016年は谷繁元信監督の休養後に一軍守備コーチに転じ、攻撃時は一塁ベースコーチも担当。 中日でコーチを務めた後、2019年から京都廣学館高等学校硬式野球部に週2回で指導を行っている[4]。 また、名古屋市に整体院、みろく(369)整体を開業。整体師として活動している[5]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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