日本橋 (泉鏡花)
『日本橋』(にほんばし)は、泉鏡花が1914年(大正3年)に書き下ろしで発表した長編小説および本人脚色による戯曲[1]。鏡花作品では『婦系図』と並び、新派古典劇の代表作[2]の一つである。 同作を原作に、1929年(昭和4年)には溝口健二監督によるサイレント映画が、1956年(昭和31年)には市川崑監督による長篇劇映画が製作・公開されている。 概要
『日本橋』は書き下ろし小説として、1914年(大正3年)に東京の出版社千章館で出版された[1][3]。のちに改造社、岩波書店等[4]で多く再刊。 初演は、1915年(大正4年)3月、東京・本郷の本郷座。真山青果が脚色した。主役・お千世の役を喜多村緑郎門下の大部屋俳優花柳章太郎が抜擢され、花柳自身の出世作となった[2]。なお『戯曲 日本橋』は、1917年(大正6年)に春陽堂[1]で刊行。 溝口版の映画『日本橋』は東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、現存するのは市川版のみ[5]。2007年(平成19年)に角川エンタテインメントからDVDが発売されている[6]。 映画1929年版
『日本橋』(にほんばし)は、1929年(昭和4年)製作・公開、日活太秦撮影所製作、日活配給、溝口健二監督による日本のサイレント映画である。 キャストスタッフ・作品データ
1956年版
『日本橋』(にほんばし)は、1956年(昭和31年)製作・公開、大映東京撮影所製作、大映配給、市川崑監督による日本の長篇劇映画である。昭和31年度芸術祭参加作品。併映短編『佐久間幹線』、10月10日より『あこがれの練習船』。 製作監督を担当した市川崑は、前作の『処刑の部屋』が青少年の性犯罪を誘発させたとして新聞などから批判され、騒動となったため、次回作を選考する際、大映の重役だった作家の川口松太郎に相談した。川口は泉鏡花の『日本橋』と永井荷風の『おかめ笹』の二者択一を提案し、市川は前者を選んだ。脚本を担当した市川の妻である和田夏十は「私にはとてもシナリオ化できない」と臆していたが、同じ脚本家の井手俊郎から「難しく考えず、気楽にやんなさい」と励まされ、脚本を書き上げた。本作は市川の初のカラー作品となり、イーストマンカラーで撮影された。さらに泉鏡花の世界に統一感を出すために、小道具やセットを全て灰色で統一する事とし、俳優以外の全てをグレーの泥絵の具で塗り上げた。しかし、当時のカラー撮影はモノクロ以上にライトの光量を必要としたため、セット内が高温となって俳優たちの顔が紅潮する場面が多発したので、当時の喫茶店などに常設されていた大型冷房機を買い込むなど、撮影の苦労が絶えなかったという。他にも、大型ステージにセットを組み、レールを敷いて本物の電車を走らせて明治時代の日本橋の大通りを再現したり、撮影所裏にオープンセットを建てて実際に燃やして大火事を再現する等、莫大な美術費がかかっている[7]。 キャスト
スタッフ・作品データ
出版
参考書籍
註参考文献
外部リンク
|