戦藻録
『戦藻録』(せんそうろく)は、宇垣纏が記した陣中日誌。副題は「大東亜戦争秘記」[2]。 日本海軍作戦の第一級史的資料[3]、戦争文学とも見られる[4]。 内容本書の名称は「戦の屑籠、否戦藻録と命名」とはしがきにあり宇垣本人によるもの。1941年10月16日から1945年8月15日の死まで宇垣により続けられた陣中録[5]。海軍甲事件で負傷した時期も宇垣の口述筆記で部下によって書き続けられた[6]。 →詳細は「宇垣纏」を参照
宇垣は軍の要職を歴任した人物であるため、第一級史的資料として見られる。彼の人生哲学、処世感、思考なども読める[3]。「鉄仮面(黄金仮面)」とあだ名され喜怒哀楽を表さない冷血漢と見られた宇垣が亡妻を思いやるなど意外なほど家庭的な一面を持っていたことなども読みとれるという[7]。 戦後、宇垣の嗣子博光(医師)が横井俊之、小川貫爾に委嘱し前編が1952年(昭和27年)に日本出版協同から刊行[8]され、翌年後編が刊行された[9]。横井は宇垣の第五航空艦隊司令長官時代の参謀長、小川は博光の岳父である。のちに刊行当時行方不明となっていた開戦前50日間の日誌が宇垣家に届けられ、該当部分を増補した形で1968年(昭和43年)原書房から明治百年史叢書第50巻として刊行された[10]。宇垣は本書を「敵手に任すべからず」としていたが、戦後GHQ戦史室調査員を務めたゴードン・プランゲがその価値を認めて外国語出版権を取得し[11]、米国でもピッツバーグ大学出版局からThe Diary of Admiral Matome Ugakiと題して刊行された[12]。 執筆の動機宇垣は1938年(昭和13年)12月から1941年(昭和16年)2月まで軍令部第一部長(作戦部長)の地位にあった。この間 支那事変は膠着状態を脱却できず、日独伊三国同盟締結、仏印進駐などが行われ日米関係は悪化の一途をたどる。宇垣は三国同盟に反対であった[13]が最終的には賛成したこと、支那事変を解決することができなかったこと、また仏印進駐についても自責の念を持っていた[13]。宇垣は日米戦わずとの大方針にもかかわらず、日米戦争が現実のものとなってきた状況に現職の連合艦隊参謀長である身を思い、「公務上の事も、個人的の事も一切構はず、その日その日にまかせて書き綴る事は将来ナニガシカの為に必要と考へる」として執筆を開始した。 プランゲは公刊されることを想定して書かれたものであると見ている[11]。 紛失部分ブランゲによる大戦関係者への聴取・資料収集に協力した千早正隆によれば、本書の序編にあたる部分を千早が英訳した際は1941年(昭和16年)10月22日に宇垣が第一航空艦隊の人事につき山本五十六に「南雲長官と草鹿参謀長を更迭し長官後任に小沢治三郎を用いるよう進言し山本から同意を得た」という記述があったとしている。しかし刊行された『戦藻録』に該当部分はなく千早は何者かによって抹消された可能性を指摘している[14]。 また第六巻も戦後に連合艦隊先任参謀であった黒島亀人が東京裁判の証人として利用するとして借受も紛失する。冨士信夫によれば、黒島が証人として東京裁判に出廷したことはないという[14]。 第六巻の範囲は1943年1月1日から4月2日。ガダルカナル島撤収作戦、東部ニューギニアのラエ増援作戦、4月に予定された航空大攻勢の準備について記載があったであろうと考えられている。千早正隆は宇垣が大きな作戦後は所見と反省の記載を常としたためガダルカナル島作戦における反省もあったと見ている[15]。 構成本書の原本は15冊から成り、各冊は次の期間を対象としている。
俳句
亡妻へ手向けた句歌
1945年(昭和20年)4月26日は妻の五年祭であった。宇垣は前年の命日には自宅での祭祀を行わせず、翌年「心より五年祭を営む」つもりであったが、同20年1月に兄の上京を機会に内輪で五年祭を行った。同年の命日に戦地にあった宇垣は、野ばら一枝をもって妻を弔った。 戦藻録年表
書誌情報
脚注参考文献
関連項目外部リンク
|