岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉6月29日 - 1984年〈昭和59年〉?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。
経歴
北海道江差生まれ。第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部、1929年(昭和4年)に同経済学部を卒業。
戦後、1950年(昭和25年)より九州大学教養部教授。ついで法政大学経済学部教授となる。1968年(昭和43年)法政大学教授を辞任、以降は著述業に専念した。
晩年
1983年(昭和58年)に青土社から出版した『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂逸郎を批判[注釈 1]。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して[注釈 2]、80歳となる直前の翌1984年(昭和59年)6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た[注釈 3][注釈 4]。
全ての家財を整理し、東京・本郷の自宅マンションを引き払った夫婦の足取りは、品川のホテルに投宿したのを皮切りに、伊豆の大仁温泉・浜松・京都・岡山・萩・広島などを巡ったことがクレジットカードの使用記録から確認された[注釈 5]。そして同年9月30日に大阪のホテルに宿泊したのを最後に足取りが途絶え、現在でも生死は確認されていないという[注釈 6][注釈 4]。
研究内容と業績
戦後にマルクス経済学者の大御所であった向坂逸郎名義で出版された岩波文庫版の『資本論』の翻訳を「下訳」[注釈 7]として請け負った。岡崎自身によれば、名義は向坂だったが、向坂はほとんど関与しておらず、実質的には岡崎の訳である。向坂逸郎没後に夫人のゆきは、自分だけが知っていることとして、向坂逸郎は岩波書店に岡崎との共訳とすることを申し入れたが岩波に拒否され、名義は向坂逸郎訳とするが印税は折半することとした、と語っている[8]。
後に改訳し正式に岡崎次郎訳で、大月書店『マルクス=エンゲルス全集』を刊行し、同社・国民文庫で『資本論』(全9巻)、および『資本論入門』(解説本)、『資本論書簡』(全3巻、マルクス=エンゲルスの往復書簡の編訳、のち単行本で新版)を刊行した。
編集・訳
岡崎次郎は戦後『資本論』及びマルクス主義研究と普及において、たびたび中心として他の研究者に協力を頼み、大きな仕事を成し遂げている。マルクス主義の翻訳にたいして大きな貢献を果たした。
なお以下の詳細は岡崎の著書『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』(青土社)に拠る。
『資本論辞典』(1961年(昭和36年)、初版、青木書店)
最初に計画されたのは1955年(昭和30年)だったとされる。岡崎が全体構成、項目、試案を担当した。これによってテスト版として1955年(昭和30年)12月に河出新書として『資本論小辞典』が出された。これにさらに項目を加え再編集がなされた。編集委員会は久留間鮫造、宇野弘蔵、岡崎次郎、大島清、杉本俊郎で組織。途中当初予定された河出書房が経営困難となり、青木書店に出版社は替わるなどの事態が発生した。編集委員による執筆に加え、百数十名に上る執筆者が参加する大事業となった。
『現代マルクス=レーニン主義事典』(1980年(昭和55年)、初版、社会思想社)
対象を『資本論』に限定せず、より包括的なマルクス主義事典を作ろうという意図で進められた。執筆依頼相手として、古在由重、石堂清倫、渡辺佐平、新田俊三、佐藤経明、山内一男、坂本徳松、新谷敬三郎、小場瀬卓三、山崎八郎、塩田庄兵衛、青木宗也、岩永博、鈴木鴻一郎、藤田勇、小田切秀雄、小山弘健が選ばれた。岡崎自身も執筆をし、他の執筆遅延や執筆放棄などで執筆者からこぼれてくる項目についてもできるかぎり執筆した。
大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』
特にマルクス主義文献の日本での普及に大きな影響を与えた大月書店の『マルクス=エンゲルス全集』では尽力した。1958年(昭和33年)、大月書店の小林直衛から岡崎は、「ドイツのML主義研究所編集の『マルクス=エンゲルス全集』(ソ連のML研究所編集『マルクス=エンゲルス全集』第二版のドイツ語版)がベルリンのディーツ社から刊行されており、その翻訳をやるので中心になってもらいたい」との申し出を受ける。岡崎は2名の監訳として小林が挙げた大内兵衛と細川嘉六のうち、大内兵衛宅へ杉本俊郎と訪問、年なので自分で仕事は出来ないが監訳として名前を出すということで大内は引き受けてくれたという。各巻には巻頭にソ連研究所のドイツ語訳とドイツ研究所の序文がついていたが、村田陽一が前者翻訳をロシア語原文から、岡崎は後者翻訳を全巻担当した。1959年(昭和34年)10月から1968年(昭和43年)10月までに第20巻までが出た。第21巻と第22巻の2巻のところで3年間出ない期間があったものの、その後は順調で、1975年(昭和50年)秋には全39巻の刊行が終了した。同全集では『資本論』新訳をはじめ、『剰余価値学説史』新訳、『マルクス=エンゲルス書簡集』新訳も含まれている。
『剰余価値学説史』初訳
『剰余価値学説史』初訳では当初国民文庫での分冊刊行が計画され、当初大島清と時永淑に任せたが、遅々として進む気配はなく、1分冊に1年かかるペースに業を煮やした小林直衛の指示で第5分冊までで大島=時永訳は打ち切られた。小林直衛の指示もあり、紆余曲折の末、結局岡崎次郎と時永淑でやり遂げることとなった。既刊部分については時永が再訳し岡崎が校閲、残りの部分は岡崎が元訳を担当した。
『剰余価値学説史』新訳
全集版の『剰余価値学説史』では岡崎は手を触れなかったが、岡崎の訳がそのまま使われている箇所も多いため、翻訳者として名前が出ることとなった[注釈 8]。
『マルクス=エンゲルス書簡集』新訳
『マルクス=エンゲルス書簡集』新訳では、マルクス=エンゲルス往復書簡だけでなく、二人の生前書いたもので現存する書簡がすべて網羅されている重要なものだった。すでに1950年代に旧全集での資料をもとに『マルクス=エンゲルス往復書簡』訳に着手し岩波文庫(全3巻)で刊行し、岡崎はここでも他の研究者とともに新全集での翻訳を担当した。なおヒルファディング『金融資本論』(岩波文庫、改版・上下)を訳している。
『資本論』新訳
上記全集のための新たな『資本論』翻訳にも岡崎は取り組んだ。戦後間もない時期に向坂逸郎の紹介でやった『資本論』翻訳を岡崎は改めて検討、全集のための準備として、1958年(昭和33年)、国民文庫版『資本論』のための準備に取りかかった。それにあたって、誤訳や曖昧訳を一掃する、それだけでなく現代の青年にとって読みやすい翻訳にしようとの意図で、東大大学院生だった新田俊三(後に東洋大学教授)、塚本健(後に東京大学教授)、鎌倉孝夫(後に埼玉大学教授)を雇い手伝ってもらうこととした。1961年(昭和36年)5月から1964年(昭和39年)9月まで、国民文庫版全11冊を完成した。その後、全集版翻訳にあたって、今度はこの国民文庫版を検討するために命尾孝子という学生に原稿用紙に書きとらせ、それを修正する手法をとった。全集版『資本論』翻訳は1965年(昭和40年)9月から1967年(昭和42年)3月まで全集23-25巻(全5分冊)として刊行された。
向坂逸郎が岡崎次郎におよぼしたもの
向坂逸郎が岡崎次郎におよぼしたものは岡崎の自叙伝にたびたび登場するが、大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』でも向坂は登場する。岡崎自身の筆によれば、上記国民文庫版『資本論』翻訳で3人の大学院生に手つだってもらった際、通称〈向坂塾〉の学生だった3人から岡崎新訳『資本論』の手伝いをしていることを知ると、向坂は、それは君たちが自分の商売敵になることで、今後は絶交すると言ったと岡崎は知る。これを聴いた岡崎は、さほど3人の翻訳が良くなかったこともあったが、3人を手放した。
岩波文庫版『資本論』
向坂逸郎の介入はそれだけではなかった。まだ大月書店の全集版『資本論』が刊行中だった1966年(昭和41年)夏、岡崎が他社で『資本論』を翻訳出版していることを知った向坂が怒り、岡崎への印税差し止めを岩波書店に訴えており、そのため印税が止まったことを岡崎は知る。向坂は岩波側に書面で通知してきたとのことで、岡崎はそれを読んだが、「他社から出すとは重大な裏切り行為」であり「いずれ弁護士を代理人として差し向け厳重に糾明する」ことが書いてあった。
岩波の担当者はまだ若く、20年前の翻訳版も大部分は岡崎によることは何も知らなかった。結局、向坂と直接の交渉をすることになり、1967年(昭和42年)3月に夫人同伴の向坂と岡崎は新橋のレストランで会った。会談では向坂はにこやかで、「あなたの気持もよく分かった。いろいろ物入りもかさむので一つ宜しく」と言った。数日後に岡崎は今年10月いっぱいで印税は放棄する旨の手紙を出した。向坂からは「それでけっこう」との簡単な返事がきた。同年10月、岩波書店「マルクス『資本論』100年記念、向坂逸郎訳『資本論』全4冊」という新聞広告をみた岡崎は、向坂の「2枚も3枚も上手」を知り同時にそれまでつなぎ止めてきた敬愛を失った。
脚注
注釈
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
河出書房などで編集者をして、岡崎さんとの親交が深い本吉久夫さん(76)は、これより少し前、自宅を訪ねた。本吉さんが出版をすすめた『マルクスに凭れて六十年』が青土社から出たばかりで、岡崎さんは、「おかげでいい本ができたよ」と礼を言い、本の裏表紙にこう記した。
「おだてて、こんな本を作らせた本吉久夫さんに、いま、ただありがとう」
それを本吉さんに手渡す前に奥さんに見せた。すると、奥さんの目にみるみる涙があふれてきたという。
本吉さんが言う。
「子どものいない二人の間では、『この本ができたら、二人でこの世から身を隠そう』とおそらく決めていたんでしょう。奥さんは、ついにその時がきた、と胸に迫ったんですね。岡崎さんは六十歳になったころから、『人生は自分で結末をつける。だけど、まだ女房の承諾がとれないんだ』と冗談半分、まじめ半分に言っていました」
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
旅に出る直前、東京・本郷にある自宅マンション(賃貸で2LDK)に、親類や親しい学者仲間を呼んで、それとなく「最後の別れ」を告げている。
「これから西のほうへ行く」
と言うのを、渡辺寛東北大経済学部教授(62)は聞いた。同年五月十九日のことだ。
法政大の教員時代から「尊敬の念をもって接してきた」という渡辺さんは、岡崎さんがそれ以前にも「死出の旅立ち」を何度か口にするのを聞き、思いとどまるように説得していた。このときも、
「西のほうとは、西方浄土とひっかけてるんだな」
と思ったという。
家財道具もあらかた処分されガランとした部屋で、帰りぎわに岡崎さんは、
「君、これ、持ってけよ。こういうのもいいんだよ」
といって、少しほこりをかぶったカセットを二つ、渡辺さんに手渡した。倍賞千恵子とちあきなおみの歌だった。苦笑しながら受け取り、
「これでお別れですね」
と言うと、「うん」と一つうなずいた。
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
さて、本郷のマンションを引き払った岡崎夫妻は、西に旅立つ最後の日の六月五日夕、品川の高輪プリンスホテルで、長姉の後藤雪江さん(二年前に九十二歳で死去)、その息子で第一勧銀信用開発相談役の後藤寛さん(69)、その娘の祐子さん(31)と五人で中華料理の会食をした。
「旅行中の連絡先は寛のところにしておいたので、よろしく頼む」
と岡崎さんは言い、あとはとりとめのない昔話がつづいた。話の合間に、やはり「西のほうへ行くよ」と言ったのを、寛さんははっきりと覚えている。クニさんの足が相当弱っていたことから、タクシーでの旅になるだろう、ということも聞いた。
祐子さんが振りかえる。
「食事の後、ロビーでお茶を飲んだんですが、父と次郎さんが話し込んで、祖母とおクニさんがしんみりしていました。お茶の後、玄関先で、おばあさん同士が手を取り合ってお別れしていたのを、よく覚えています」
ホテルに泊まる岡崎夫妻に見送られて、後藤さんたち三人は自宅にもどった。雪江さんは、息子と孫娘に、
「次郎が自分で決めて姿を消すというのだから、本人の気のすむようにしてやることがいちばんじゃないだろうか」
と言ったという。
- ^ a b 評論家の呉智英は呉 (2003, p. 113)で以下のように解説している。
翌年八十歳になるのを目前に『マルクスに凭れて六十年』を岡崎次郎は書いた。遺書のつもりである。
後に岡崎次郎の「死出の旅路」を記事にした『週刊朝日』(一九九四年六月十七日号)によれば、本ができ上がった時、岡崎にこれを見せられた妻の目に涙があふれてきたという。妻はそこにこう書かれていたのを知っていたわけではない。
「いま私にとって問題なのは、いかに生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」「せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ」
この文章を読んでいなくても、妻は岡崎次郎の気持を察知し、万感の思いが込み上げてきたのだ。本が出た後、岡崎は友人知人にこれを配り、さりげなく別れの会を持って言った。「これから西の方へ行く」。
家財を整理し、東京本郷のマンションを引き払った岡崎夫妻は、文字通り西の方へ旅立った。
『週刊朝日』の記事によれば、まず品川のホテルに泊まり、次いで伊豆の温泉に行き、浜松を経て関西に入った。その後、岡山、広島など中国を何ヶ所か回ったらしい。東京を旅立って四ヶ月後、大阪のホテルに宿泊したことは記録からわかる。その後、岡崎夫妻の行方は、現在もなお不明である。
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。
こうして、六月六日から、タクシーを使った老夫妻の「西への旅」が始まった。
家財道具いっさいを処分した夫妻に残された財産は、三和銀行に預けた約四百万円の預金だけだった。旅先で預金を引き落とすと同時に、ホテルなどに泊まるときは、JCBカードを使うこともあり、三和銀行から引き落とされる明細が、連絡先とされた後藤寛さん宅に届いた。
その引き落としの明細は残っていないが、後藤さんの記憶によれば、宿泊先は一流ホテルが多く、同じホテルに二、三日ほど泊まって次の場所に移る、という形だった。
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。
こうした岡崎さんの「旅立ち」の動機について、本吉さんが語る。
「岡崎さんは、上原専禄さんや対馬忠行さんのことを何度か話してました。特に対馬さんには『先を越されちゃったよ』って冗談ともつかない口調でいっていました」
上原専禄さんは一橋大の元学長。六〇年安保闘争では文化人グループの中心の一人として活躍したが、晩年、「亡くなった妻の回向をするために旅立つ」とごく親しい人だけに言い残して消息を絶った。京都で四年余り隠遁した果てに、ひっそりと死んだ。
対馬忠行さんは、岡崎さんとも親交があった。やはりマルクス学者でトロツキー研究家だったが、瀬戸内航路の旅客船から身を投げた。東京の老人ホームを出たまま行方がわからず、白骨死体が、ほぼ四ヵ月後に神戸港沖で見つかった。
東北大教授の渡辺寛さんも、岡崎さんが、
「対馬さんのように死体が見つかってはいかんのだ」
と言うのを聞いたことがあるという。
岡崎さんのJCBカード引き落としの最後は、八四年九月三十日、大阪のホリディイン南海だった。「失踪」してから、ほぼ四ヵ月後だった。
- ^ 当初は共訳として持ちかけられた。
- ^ 本文中にいう『剰余価値学説史』新全集版(新訳)は『マルクス資本論草稿集』5ー8(大月書店、1980‐1984年)として刊行された[9]。
出典
参考文献
- 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』青土社、1983年2月24日。
- 呉智英『犬儒派だもの』双葉社、2003年3月20日。ISBN 978-4-575-29524-5。 - 注釈:岡崎の死出の旅路を解説した「虚無に向きあう言葉」を呉 (2003, pp. 102–116)に収録。
- 群司武「老マルクス学者「岡崎次郎」夫妻の死出の旅路の果て」『週刊朝日』第99巻第23号(通巻4023号)、朝日新聞社、1994年6月17日、26-29頁。
- 別冊宝島編集部 編『自殺したい人びと 青木ヶ原の「ぶら下がり」から「青酸カリ宅配事件」関係者、人格障害=ボーダーラインまで!!』宝島社〈別冊宝島 445〉、1999年5月17日。ISBN 4-7966-9445-5。 - 注釈:呉 (2003, pp. 102–116)に収録された「虚無に向きあう言葉」の初出。
外部リンク