山崎 智也(やまざき ともや、1974年3月11日 - )は、群馬県邑楽郡邑楽町出身の元ボートレーサー。
登録第3622号、71期。身長165cm。群馬支部所属。群馬県立館林高等学校中退。同期には川北浩貴、天野晶夫、深川真二、海野ゆかり、岩崎芳美などがいる[1]。
レーサーとしての特徴
現役時代にはボートレース界を代表していたレーサーの一人で、安定感のあったレース運びに定評があり、コース取りは基本的には枠なりであったが[2]、ピット離れが良いときには積極的に内に入ってくることもあった。ボートレーサーの職業病的な腰痛に苦しむ事があったものの[3]、常にSGやG1で安定した成績を残した。
関東地区のボートレーサーの中では、毒島誠(群馬支部)、桐生順平(埼玉支部)および濱野谷憲吾(東京支部)らと並びファンの注目を集める選手である。人柄もよく、群馬支部の後輩でもある毒島らに慕われていた。端正な顔立ちから「艇界の貴公子」の異名を持っていた[4]。
漫画・アニメの『モンキーターン』に登場する「潮崎俊也」は山崎がモデルとされている[5]。そのキャラが登場する以前に、作者の河合克敏は取材中に山崎と面会しており、山崎が「帯をギュッとね!」のファンであり、「モンキーターン」も愛読していることを知って、作者自身も彼のファンになったと公言していた[6]。
略歴
- 1997年10月の第44回全日本選手権でSG初制覇。SGは同年8月のモーターボート記念で初出場して以来2度目の出場での初優出だった。翌1998年5月には地元桐生で開催された笹川賞を制した[3]。
- 2001年12月の第16回賞金王決定戦の優勝戦では痛恨のフライングをしてしまい、規定により2002年のSG出場権を失った[3]。これにより1997年からの賞金王決定戦連続出場は5年で途絶える。
- 2003年の全日本選手権でSG3勝目をあげた[3]。同年の賞金王決定戦ベスト12に復帰。
- 2006年5月の笹川賞で優勝、SG8戦のうち5戦で優出し、年間表彰で特別賞を受賞した[3]。
- 2007年は賞金王決定戦出場を逃した(シリーズ戦優勝)。これ以降2012年まで賞金王決定戦に出場できず、2008年は一般戦で2回の優勝のみ、2009年は優勝0回であり、2010年12月5日からボートレース丸亀で開催された 一般戦「テレボートカップ」の優勝まで約3年間優勝から遠ざかった。
- 2010年12月1日に、女子ボートレーサーの横西奏恵と結婚(これにより横西の元夫でボートレーサーの佐々木和伸との間に授かっていた1女も養子として引き取り山崎姓となった。この1女が後述する小葉音である)[7]。
- 2011年5月の笹川賞では夫婦揃って初日ドリーム戦のメンバーに選ばれた。夫婦揃ってSGドリーム戦に参戦するのは史上初[8]、SGでの夫婦対決に枠を広げても1988年の笹川賞で鈴木幸夫・弓子夫婦が対決して以来となる[9]。
- 2012年12月19日、妻・奏恵が2012年に新設された賞金女王決定戦を最後に現役を引退[2]。山崎は賞金王シリーズ戦(現・グランプリシリーズ)は過去2度制したものの賞金王決定戦(現・グランプリ)の出場は2006年を最後に長く遠ざかっていた。しかし、妻・奏恵が現役を退いた2012年は同年の賞金ランク12位という当落線上ギリギリのラインで6年ぶりに決定戦に駒を進めた[2]。前述の通り2001年の優勝戦でチャンスと言われた中で5号艇で出走し、まさかのフライングという憂き目にあっただけに、このレースにかける思いは人一倍あったという。なお、2001年時の優勝は田中信一郎。このレースはまだナイター照明がなかった住之江競艇場で行われたが、トラブルによりナイター状態のレースであった。2012年、住之江での賞金王決定戦、山崎のトライアル3戦での成績は4着・1着・4着。全体では4番目の成績で、優勝戦は4号艇で出走することになった。同年12月24日のクリスマスイブに開催された賞金王決定戦優勝戦、1号艇はトライアルでも圧倒的な実力を見せつけ、賞金王で史上最多のV4を狙う絶対王者の松井繁。山崎は枠なり4コース角からの進入で2番手スタートを決めるが、トップから最下位までの差は僅か0.04秒差であった。しかし、ダッシュから舟足を伸ばし、1周目・1マークで捲り差しを決め、バックストレッチで1号艇の松井を捉えて逆転。1周目・2マークを先に回りトップを航走し、その後は一度も先頭を譲ることなくゴールした。結果、SG通算7勝目、賞金王決定戦は悲願の初優勝を果たした[10]。ピットに帰って来ると妻で賞金王大会前に現役引退を発表した横西奏恵が待っていて妻・奏恵との熱い抱擁を行った。また、関東地区選手の賞金王決定戦優勝は、千葉在住の元祖艇王・彦坂郁雄(登録第1515号)が第1回大会を制して以来、26年ぶり2人目の快挙となった[11]。
- 2013年は、賞金王決定戦ではベスト12進出を逃した。本人によれば1度取れれば良いと思っていた賞金王を取って満足し、ボケていたという[12]。
- 2015年のグランプリ 優勝戦では1号艇で1コースから逃げ切り、2度目の優勝を果たした[13]。この年、オールスター、グランドチャンピオンも制し、SG3冠を獲得した彼は、最優秀選手に選ばれた[14]。なお、同一年にSG3冠を達成したのは、史上5人目の快挙であった[15]。
- 2018年、妻の元夫との間にできた養子である(戸籍上は長女の)[16]山崎小葉音がボートレーサーとしてデビューした。
- 2022年4月12日、日本モーターボート競走会に引退届を提出し、翌13日付で現役を引退。[17]
引退について
2015年に2回目の賞金王を獲ったところで「選手としてやり切った」意識が生まれ、翌2016年のグラチャン優勝の直後に「優勝したのに、レースがつまらない」と思い、以後選手としてのモチベーションが失われていたという。しかし、以前より周囲からは「とにかく30年は(選手を)続けろ」と言われていたことから、デビューから30年経った2022年までは現役を続けるつもりで活動していた[18]。師匠の廣町恵三、同期の川北浩貴らには2022年の正月の時点で引退の意向を伝え、慰留を受けたものの、本人の決意は固く、慰留を断念した[19]。SG制覇レーサーが絶頂期で引退したのは植木通彦以来となった。
本人によると、「人前に出てしゃべるのが苦手」という理由から、現役引退後は公の場に出ることはあまりない[20]。
人物
- 同期の川北浩貴(滋賀支部)や76期の原田幸哉(愛知支部→長崎支部)とは大の仲良し。また1年先輩の野添貴裕(大阪支部)とは、若手時代に世話になったことから仲良くなり、大阪支部の他の選手(田中信一郎、太田和美等)との仲を取り持ってもらったほど[18]。
- パチスロライターのういちとも仲が良く、ういちからは「チャラ崎さん」と呼ばれていた。現役引退後にはういちのYouTubeチャンネルに登場し、引退に至る経緯を語っている[18]。
- 現役時代のキャッチフレーズは「ライジングスター」である。
- 実弟は現・ロバートの山本博とお笑いコンビ「山本山崎」を結成していたが、2ヶ月でNSCを中退している。
- ゲーム好きで『ウマ娘 プリティーダービー』のプレイヤーとしても知られている。現役時代から「課金するために稼がなきゃあかん」と語っていたほどで[21]、引退後は子供を学校へ送り迎えする以外はほぼ「ウマ娘」漬けの生活を送っているという[22]。
- 2002年に競艇のCMに登場する予定があり、同年のイメージキャラクター・遠藤久美子と共演したCMの収録まで済ませていたという。ところが、前述したように2001年の賞金王決定戦でフライングを切ったため、BOAT RACE振興会が山崎の出演に難色を示し、それらのCMは全てお蔵入りとなった[23]。
戦歴
タイトル
生涯戦績
- 出走回数:6388回
- 1着回数:1968回
- 優出回数:310回
- 優勝回数:93回
- SG優出回数:39回
- SG優勝回数:11回
- G1優出回数:110回
- G1優勝回数:31回
- G2優勝回数:2回
- フライング(F)回数:21回
- 出遅れ(L)回数:2回
- 通算勝率:7.47
- 2連対率:51.68
- 3連対率:68.38
- 生涯獲得賞金:2,596,902,205円
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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