尚真王
尚真王(しょうしんおう、旧字体:尙眞王、1465年(成化元年) - 1527年1月13日(嘉靖5年12月11日))は、琉球王国第二尚氏王統の第3代国王(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。第二尚氏王統の初代国王尚円王の子。童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。 即位1476年に第二尚氏王朝を開いた尚円王が没すると、実子のマアカトダルが幼かったため、王弟の尚宣威が王位に就いた。ところが半年後に行われた即位式で新国王を讃えるはずのキミテズリ神からマアカトダルを讃える神託を下された。これにより、宣威王は退位し、12歳のマアカトダルが尚真王として即位し以後50年にわたり統治する。これは王府の女官に力を持っていた母后オギヤカの陰謀と考えられている[1]。 中央集権体制の確立初期の頃は幼少であり、母后が政務を見ていたという記録が、当時琉球に漂着した朝鮮人の記録にも見える[1]。 50年にわたった尚真王の最大の事跡は、中央集権体制を確立し、第二尚氏王統の権力基盤を安定させたことである。 そのために、各地に割拠して力を持っていた按司を首都の首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させた。首里に住む按司には領地に応じた収入を保証した。按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められた。 また地方制度を改革し、現在の市町村に相当する地域を間切、字に相当する地域をシマとした。 また神女を聞得大君の元に組織化し、各地のノロをその統制下においた。初代の聞得大君には王の妹の月清が就任する。妹の霊力で政治を行う兄を守護するというおなり神信仰であるが、同時に神祇面での中央集権化である。 さらに、中央官庁には王を補佐する三司官(世あすたべ)を置いた。 1500年(弘治13年)には八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年(嘉靖元年)には与那国島を征服し、版図を拡大した。宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至った。墓所は那覇市玉陵。 文化の興隆
家族
〇外子 池城安基(母・儀保大阿母志良礼・毛氏池城殿内一世大新城親方池城安基 冊封使(1479年)
脚注外部リンク
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