少女ヌード写真集
少女ヌード写真集(しょうじょヌードしゃしんしゅう)は、18歳未満の少女、特に思春期の裸体を被写体にした写真作品。日本では1960年代から出版されていたが、1999年の児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の施行によってごく一部を除き出版・流通とも停止した。 概要1970年代初頭にオランダやデンマークでポルノが解禁されると、そのサブジャンルとして児童ポルノもまた出現したが[1]、そうした作品が少女と成人男性の性交を露出したものだったのに対し、日本における少女ヌードは基本的に裸体の鑑賞に留まっていた[2]。かつての日本では陰毛の描写を禁じられていたため、そもそも陰毛のない(陰毛のタナー段階が陰毛無しのIまたはII-IVで剃毛や脱毛をしている)少女の女性器、いわゆるワレメ(割れ目)は猥褻とは見なされず、性的パートナーのいない男性にとっては少女ヌードだけが女性器を見る手段だった。そのため小児愛好癖のない男性も代替品として少女ヌード写真を手にすることが多かったらしい[3][4]。乳房のタナー段階がVだけでなく、I-IVの乳房が露出している作品もあった。 歴史1970年代が日本の少女ヌード写真のブームの幕開けであって、それ以前に存在したものは少ない。1943年にドイツ語から日本語訳された『子供のからだとその養育』[5]のような医学書や保健体育関連の資料を、一部のマニアが 「少女の裸体を見る」という本来の用途以外の目的で愛好していたようである[6]。 1970年代前半日本における少女ヌード写真集は1969年、12歳の梅原多絵(黒田多絵)[注 1]をモデルとした剣持加津夫撮影『ニンフェット 12歳の神話』(ノーベル書房)[注 2]を嚆矢とする[1][7]。ただし『12歳の神話』そのものはロリータ・コンプレックス(ロリコン)を意識したものではない[1]。自然の中のおおらかなヌードでナチュリズム的感覚が前面に出た、エロス的要素の少ないものであった。もともと剣持は妊娠中絶問題、性教育、青少年麻薬問題の専門家であり[7]、前年の1968年にノーベル書房から『成熟への導き : スエーデンの性教育』を出版していることからわかるように、この写真集は当初、性的対象としての少女というよりも、あくまで性解放というコンテクストで出版されたのである。翌1970年にはノーベル書房から『星 陽子フォト・ロマネスク 初恋十六歳』小川勝久撮影、が出ている。 1971年には、梅原多絵に続き、11歳の大上亜津佐をモデルとして毎日新聞に藤井秀樹(本名は秀喜)撮影[8]の全面広告写真(1971年10月29日)が掲載されたことで話題になった。大山謙一郎撮影で写真集『The Little July』がヤック翔龍社から出版された[注 3]。やはり自然主義的なヌードでこの際に大山が行った撮影ロケの別ショットを「週刊女性自身」(光文社)1971年9月11日号に「初潮11才」、「月刊現代」(講談社)1971年11月号では「11歳のニンフ」といったタイトルでグラビアに掲載された。大上は長友健二の撮影で「週刊平凡パンチ」(平凡出版)1971年11月1日号のグラビア「亜津佐という名の花が咲く」にも登場。なお、毎日新聞の意見広告は大上のヌードとともに「彼女はまだ11才。どう育つでしょう、セックスセックスセックスの世の中で」のコメントをつけている[9]。「過剰」と思われた大人社会の性の氾濫に対し、少女ヌードはそれに抵抗する非「性」の象徴であるかのように振舞われていた。大上の登場は社会的な反響を呼び、ほかの雑誌などにも取り上げられた。永井豪の漫画『ハレンチ学園』騒動と並び、「子供の性」をめぐる当時の世相的な出来事となった[注 4]。 1973年、沢渡朔撮影による『少女アリス』(河出書房新社)が出版。梅原や大上のようなナチュラルな無垢さを押し出したものとは異質な、エポックメーキングな作品であった。8歳のモデル、オーディションで帰り際にキスを投げかけて合格したというブロンドの少女サマンサを使って、ロンドン郊外で撮影されたこの写真集は、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』をモチーフにした幻想的な雰囲気のなかで、フェティッシュな対象としての少女を耽美的に表現し、不朽の名作となる。詩を瀧口修造と谷川俊太郎が書いている。1979年に沢渡は6年後のサマンサを撮った続編、『ALICE FROM THE SEA 海からきた少女』(河出書房新社)を出版している。 1970年代後半このころの雑誌のグラビアとしては、1975年に「普通の女の子」のソフトエロチズムで人気になった篠山紀信撮影による雑誌『GORO』(1974年創刊)に、13歳の芦田かおるのヌードと11歳の小枝草久美のセミヌードが掲載される(1975年8月14日号)。 また「少女ヌード」のカテゴリーに入らないものの中でも、1970年代には児童の可愛らしさをヌードを含め表現した作品があり、代表的なものに西川治撮影の一連の写真物語がある。1976年の『アマンダの日曜日』(サンリオ出版、西川治・写真、名木田恵子・文)など。 1976年10月を境に、アメリカ合衆国のヌーディスト村で撮影を行った単体少女写真集『モペット (Nudist Moppets[11])』が日本で流通し始めた[12]。同年から1978年にかけてはデンマークの[13]『ニンフ・ラバー』など、少女と成人男性の絡みを写した、もはやアートではない明確な児童ポルノもたびたび日本に移入されている[1]。 同じく1977年、それまでに「ビーナス'74展」(ポーランド国際芸術写真協会1974年)や「世界写真展」(ドイツ・シュテルン社主宰1972年)で写真賞を受賞して国際的に活躍していた女流写真家清岡純子が、最初の少女ヌード写真集『聖少女 Nymph in the Bloom of Life』(フジアート出版、藤本義一・文)を出版した。1979年にはそれに続き『野菊のような少女 聖少女パート2」』(池田満寿夫・文)を出版。清岡は、ここから1980年代にかけて毎年のように写真集を出してゆき、野外撮影を得意とする自然主義的な作風で最も多作な少女ヌード写真家となる。 実質的なロリコンブームの火付け役となったのは、1979年1月に出版された山木隆夫撮影『LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版)[注 5]である[12]。前述の『モペット』のような輸入作ではなく、5人の日本人少女モデルの全裸を日本人カメラマンが撮影したという点で『LITTLE PRETENDERS』が業界に与えた影響は大きい[12]。女性器が露出しているという理由で興味を持った者たちが探し回ったと言われ、すぐに増刷されている[1]。発行部数は20万部に達した[14]。また、1977年にブロンズ社から発行された「12歳の神話」の第三版の影響も大きい。 1980年代1980年代は、少女ヌード作品が市場の大きな需要となっていることが明確に意識され、それに応えようと爆発的ともいえる供給がなされた時期となった。実に100以上の少女ヌード写真集がこの時期に発売されている[12]。代表例を挙げると、西洋人少女をモデルとし25万部を売り上げた[14]『プティフェ: ヨーロッパの小さな妖精たち』(1979年)[12]から、『愛の妖精ソフィ』(1980年)、さらに森茉莉が文章を書いた『妖精ソフィ』(1981年)に至る石川洋司の作品群。13歳であるにもかかわらずグラマラスな美少女・花咲まゆ[15]をモデルとした『潮風の少女』(1982年)[12]、手塚さとみのファンが勘違いして買い求めようとしたと言われる[15]『さとみ 十歳の神話』(1983年)[12]、『心のいろ』『君はキラリ』『不思議の国の少女 早見裕香』の「英知出版3部作」(いずれも1984年)[12]、良品質で規模も最大の清岡純子による『プチトマト』シリーズがある[12]。会田我路、近藤昌良などの多作でメジャーな写真家もこの分野に参入した。 1980年代は専門誌興隆の時代でもある。史上初の専門誌『少女アリス』は80年創刊。これにポルノ雑誌『Hey!Buddy』が呼応する形で、82年4月からロリコン路線に移行し、ブームの過熱を煽った[16]。以降82年『少女体験』『ありす』、83年『ありす倶楽部』『みるく』『CANDY』、84年『ロリコンHOUSE』『ロリくらぶ』、85年『にんふらばあ』と続く。 特筆すべきは、やはり『Hey!Buddy』である。同誌には投稿雑誌の先駆けという一面もあり、グラビア掲載に留まらず読者が投稿した画像のページが充実していた。しかしその内容には、対象を物陰に連れ込んで撮影した「少女いたずら写真」コーナーのように明白な犯罪行為までも含まれており、ほとんど何でもありの状態だった[17]。別冊の投稿写真集『少女アングル』が当局から警告を受け[15]、同じく増刊『ロリコンランド』が発禁処分となり[18]、本誌は1985年11月号をもって廃刊となった[15] このように少女ヌードの存在は児童性愛的な男性の需要と密接に結び付けられ、わいせつ表現の面から、そして児童虐待や凶悪犯罪などの逸脱につながる可能性の面から[要出典]、社会的な批判や介入をよび、いくつかの児童福祉法違反による検挙や猥褻図画としての規制圧力を余儀なくされた[要出典]。たとえば1985年には、「幼女のワレメも性器である」として雑誌が摘発される事案が、1986年には、ニューヨークで日本製の少女ヌード写真集が摘発される事態がそれぞれ発生。以降87業界内外の風当たりが急激に強くなることとなる。 そして1987年、『プチトマト42』が警視庁から摘発されたことをもって、公刊される少女ヌード写真集においても性器が隠されるようになった[19]。「「プチトマト」の最新号に、多数のわいせつなシーンが掲載されていることがわかり、警視庁保安一課は、発行元の出版社をわいせつ図画販売容疑で家宅捜査を始めた。同誌は正規の取次店を経て一般書店に並ぶ「公刊出版物」で、約2万部が発行されたため、警視庁は、警察庁を通して全国の道府県警に店頭からの回収を求める異例の指示を出した」(「読売新聞」1987年1月31日)。 このような展開には、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の影響も大きかったと言える[20]。とはいえ、高桑常寿の言を借りれば「少女の写真は犯罪性があるって言われてるけど、結局、児童福祉法しか法律はない」のが当時の状況であり、本格的な禁制が敷かれるのは90年代を待たなければならない。 なお谷口玲の説によると、「ロリコン漫画」という共通項において実写派ロリコンとゆるく連帯していたキャラクター愛好派オタクが、トランジスタグラマーへとキャラクター描写の風潮が移行するとともに少女ヌードから離れていったことも業界衰退の一因と考えられる[21]。 1990年代いったん下火となった少女ヌード写真は、1990年代に入ると人気が再燃し、第2次ロリコンブームが到来した。1988年12月創刊の専門誌『アリスクラブ』は発行8万部を記録している[22]。すでに新作における性器の露出は許されなくなっていたため、無修正時代の雑誌や写真集は高値で取引されるようになった[21]。 力武靖が約10年間撮影し続けたモデル西村理香が人気を得て写真集がベストセラーとなる。1994年に高橋生建が竹書房「新鮮組」増刊で『美少女紀行』を刊行し、地域毎に総集編MAXも出た。 1999年に児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律が施行されたことにより、児童(18歳未満)の裸像を書籍、インターネットなどを通じて頒布する行為が禁止された。これにより、少女ヌード写真集の新規の出版は不可能となった。 2000年以降2005年春、国立国会図書館蔵書の『清岡純子写真集 Best Selection!』が児童ポルノと認定され、閲覧不可となる。それ以後も児童ポルノの疑いがある資料が選定されてゆき、2006年4月1日をもって、同図書館所蔵の少女ヌード写真を含んだ資料の数百点が児童ポルノとして閲覧不可となった。 写真集リスト(写真家別)石川洋司
篠山紀信野村誠一
大友正悦
大渕静樹(大舞地静樹)
神渡信平
木津智史
清岡純子写真集
雑誌プチトマト・シリーズ (ダイナミックセラーズ) 1982-87年
フレッシュ・プチトマト・シリーズ (ダイナミックセラーズ)1988-1990年
近藤昌良(星野正義)
彩紋洋実 (ヒロミ・ウォルドロン)
アヤコ・パークス
山木隆夫
力武靖力武靖名義のものについては力武靖の写真集の一覧を参照。 オムニバス・その他ロリータ写真文庫 笠倉出版社 1982年
オムニバスなど
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |