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大八木 弘明 OHYAGI Hiroaki |
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選手情報 |
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ラテン文字 |
Hiroaki Ohyagi |
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国籍 |
日本 |
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生年月日 |
(1958-07-30) 1958年7月30日(66歳) |
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出身地 |
会津若松市河東町 |
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大八木 弘明(おおやぎ ひろあき、1958年7月30日 - )は、陸上競技の元選手でマラソン・中長距離選手の指導者。福島県河沼郡河東町(現:会津若松市河東町)出身。駒澤大学陸上競技部総監督、関東学生陸上競技連盟駅伝対策委員会メンバー。
来歴
陸上競技にのめり込むようになったのは会津高田町立第一中学校(現:会津美里町立高田中学校)2年の時、校内マラソンで優勝したのがきっかけだった。中学校入学当初は、体重も100kg近くあり「ドラムカン」とあだ名されていたが、福島県駅伝常勝の陸上部で練習を積み重ね、中学3年時にはジュニアオリンピックの前身であるジュニア選手権3000mにて全国5位に輝く(9分09秒6)。
福島県立会津工業高等学校在籍時にはインターハイへの出場を夢見るも、走りすぎによる故障(疲労骨折)と貧血に苦しめられる3年間を過ごすこととなった。また、家庭の事情により大学進学も諦めざるを得なかった[1]。
高校卒業後、小森印刷(現:小森コーポレーション)に就職。早朝や昼休みを利用して練習に明け暮れる日々を送った。理由は「箱根を走りたかったこと、(陸上選手として)上を目指したかったから」であった。1980年12月の第25回全日本実業団対抗駅伝では、当時最長区間の6区(23.2km)で区間3位と快走している。
24歳になり駒澤大学経済学部2部(夜間部)に入学し、昼は川崎市役所で働きながら勉学と練習に励んだ[1]。徐々に頭角を現し始め、関東インカレ(2部)をはじめ、様々な大会で好成績を残した。箱根駅伝には3回出場し、好成績をおさめた。
大学卒業後、大学時代の成績を評価されてヤクルトに入社した。陸上競技部にてコーチ兼選手として実業団選手人生を送った。
1995年4月から母校・駒澤大学の陸上競技部コーチに就任。大八木も打診を受けたときは相当迷ったものの、「母校に恩返しをしたい」との理由から低迷に次ぐ低迷にあえいでいた同校陸上競技部の建て直しに着手した。大八木が就任以降の駒澤大の成績は飛躍的に向上し、平成の「常勝集団」[2]としてその指導力を高く評価される。
2002年4月に駒澤大学陸上競技部の助監督に就任、2004年4月には監督に就任する。コーチ就任から2022年度までに学生三大駅伝(出雲・全日本・箱根)通算27勝を記録している。(2022年度には「学生三大駅伝」の三冠を果たしている)
2008年、「多摩川会」を発足し、会長に就く。多摩川沿いにある大学、多摩川沿いでトレーニングしている12大学が集まり研修や練習を行うもの。顧問・酒井勝充(コニカミノルタ陸上競技部副部長)らと共に「男子長距離界を強くしていきたい」という思いで始まる。参加校は亜細亜大、慶應義塾大、國學院大、駒澤大、専修大、創価大、中央大、帝京大、日本体育大、日本大、法政大、明治大。年に2回、研修と練習会があり、春は新入生、夏は2、3年生が対象。陸上への意識を高めるだけでなく、多摩川や練習場所の清掃など社会貢献活動にも取り組む[3][4]。
2023年1月3日、第99回箱根駅伝終了後に、3月末をもって駒澤大学の陸上競技部監督を退任することを公表。選手たちには2022年8月の合宿で退任することを事前に伝えていた[5]。後任には同陸上競技部の藤田敦史ヘッドコーチが着任する[6]。
指導成績
駒澤大学指導成績
年度
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出雲駅伝
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全日本大学駅伝
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箱根駅伝
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1995
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第7回 不出場
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第27回 不出場
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第72回 総合12位 (往路10位、復路15位)
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1996
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第8回 不出場
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第28回 8位
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第73回 総合6位 (往路9位、復路優勝)
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1997
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第9回 優勝
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第29回 4位
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第74回 総合2位 (往路2位、復路2位)
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1998
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第10回 優勝(2連覇)
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第30回 優勝
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第75回 総合2位 (往路優勝、復路5位)
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1999
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第11回 3位
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第31回 優勝(2連覇)
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第76回 総合優勝 (往路・復路完全制覇)
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2000
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第12回 3位
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第32回 2位
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第77回 総合2位 (往路4位、復路4位)
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2001
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第13回 2位
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第33回 優勝
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第78回 総合優勝 (往路2位、復路優勝)
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2002
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第14回 3位
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第34回 優勝(2連覇)
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第79回 総合優勝(2連覇) (往路2位、復路優勝)
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2003
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第15回 3位
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第35回 4位
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第80回 総合優勝(3連覇) (往路・復路完全制覇)
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2004
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第16回 2位
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第36回 優勝
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第81回 総合優勝(4連覇) (往路2位、復路優勝)
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2005
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第17回 4位
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第37回 3位
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第82回 総合5位 (往路2位、復路11位)
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2006
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第18回 5位
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第38回 優勝
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第83回 総合7位 (往路7位、復路7位)
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2007
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第19回 4位
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第39回 優勝(2連覇)
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第84回 総合優勝 (往路2位、復路優勝)
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2008
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第20回 2位
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第40回 優勝(3連覇)
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第85回 総合13位 (往路15位、復路7位)
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2009
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第21回 10位
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第41回 7位
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第86回 総合2位 (往路8位、復路優勝)
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2010
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第22回 3位
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第42回 2位
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第87回 総合3位 (往路5位、復路3位)
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2011
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第23回 2位
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第43回 優勝
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第88回 総合2位 (往路4位、復路2位)
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2012
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第24回 5位
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第44回 優勝(2連覇)
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第89回 総合3位 (往路9位、復路優勝)
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2013
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第25回 優勝
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第45回 優勝(3連覇)
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第90回 総合2位 (往路2位、復路2位)
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2014
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第26回 中止
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第46回 優勝(4連覇)
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第91回 総合2位 (往路4位、復路2位)
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2015
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第27回 3位
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第47回 3位
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第92回 総合3位 (往路3位、復路3位)
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2016
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第28回 5位
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第48回 4位
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第93回 総合9位 (往路5位、復路11位)
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2017
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第29回 7位
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第49回 4位
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第94回 総合12位 (往路13位、復路10位)
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2018
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第30回 不出場
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第50回 4位
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第95回 総合4位 (往路4位、復路4位)
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2019
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第31回 2位
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第51回 3位
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第96回 総合8位 (往路8位、復路8位)
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2020
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第32回 中止
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第52回 優勝
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第97回 総合優勝 (往路3位、復路2位)
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2021
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第33回 5位
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第53回 優勝(2連覇)
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第98回 総合3位 (往路3位、復路9位)
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2022
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第34回 優勝
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第54回 優勝(3連覇)
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第99回 総合優勝 (往路・復路完全制覇)
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関連人物・指導した主な選手
人物・指導方法
人物
- 強面でオールバックの髪型と銀縁メガネを着用し、後述のレース中の檄などから、周囲には厳しい印象を持たれがちであるが、内面は厳しい指導がありつつもフランクな性格である[7]。
- 2日に1回はサウナに入るほどのサウナ好き[8]。
- 妻・大八木京子は、栄養士、食育インストラクター。大八木の大学時代の同級生(年齢は京子が5歳年下)で、陸上競技部のマネージャーを務めていた[9]。夫弘明が駒澤大の指導者になって以来、陸上部の寮(四誓寮→道環寮)の寮母を務めている[10]。選手のために栄養バランスのとれた食事を提供し、2007年からは専門学校に通いながら2009年に栄養士免許を取得。2021年12月には食事作りのノウハウを著した『駅伝ごはん 駒澤大学陸上競技部のスポーツ応援レシピ』(ベースボール・マガジン社)を刊行した[11]。
- 第60回箱根駅伝(1984年)に参加した際、当時無名の選手であったため、NHKのラジオのアナウンサーが大八木の名前を把握しておらず、実況スタジオが一時騒然となった。アナウンサーが彼の名を知るのにしばらく時間がかかったという。
指導方法
- 大八木が駒澤大コーチに就任して最初に行った改革は、食生活と選手の意識改革であった。それまでは選手個人で自炊していたが、寮母が朝昼晩の食事を作り食事管理を行うようにした。その寮母には大八木の妻が就任することとなり、夫婦で陸上競技部の意識改革に着手した[9]。さらに徹底的な生活管理を行い選手の意識改革を行った結果、陸上競技部内では選手の競技に対する意識は劇的に変わり、21世紀に入って以降に駒澤大を快進撃に導くことになる。また、藤田敦史(現 同陸上競技部監督)は高校時代から原因不明の不調に悩まされていたが、その原因が貧血であることを大八木が見抜いたことで、薬療法だけはなく食事療法にも気を配らせて、最終的に日本を代表するランナーとして成長していった逸話もある[9][12]。
- グラウンド外での走り込みの練習では、軽トラックに乗った大八木が選手の後方からついて行き、スピーカー片手に大声で檄を飛ばす。第84回箱根駅伝では、5区山上りを走った安西秀幸、6区山下りを走った藤井輝に対して「男だろ!!」と鼓舞。後に安西は現役引退後に「男だろ団扇」を作成するなど、大八木の檄は駒大陸上部の代名詞として定着した。ただし、第94回箱根駅伝ではレース中にアクシデントが発生した工藤有生には優しく声がけするなど、大八木による声かけは厳しい一辺倒ではない[13]。
- 上記のような熱血指導として知られる一方、時代に合わせてその指導方法は変化している[14]。2015年に全日本駅伝の連覇が途絶えると指導方法を大きく変更し、それまでの監督の指示が絶対という指導から選手との対話や自主性を重視した指導に変更した[8][15][16]。
著書
関連書籍
脚注
注釈
出典
外部リンク
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