坂川
坂川(さかがわ)は、千葉県北西部を流れる利根川水系の河川。北千葉導水路の一部としても使われている。流山市と松戸市、市川市の三市を流れ、江戸川にそそぐ。下流には、柳原水閘がある。昔は、よく洪水が起きていた。途中では、六間川などと合流している。 流路流山市野々下二丁目付近に水源(大堀川)を発し、南に流れる。上流では、数多くの水路から水を集める[1]。富士見橋付近で西に流路をかえ、支流の富士川と合流する。富士川との合流点から、松戸市横須賀付近まで、この川が流山・松戸の市境となっている。松戸市横須賀付近で、坂川と新坂川に分かれる。その後、松戸市小金付近でまた分流し、多くの水は坂川放水路を介して江戸川にそそぐ。本流坂川は放水路と分離したのち南に流れる。そして、多くの支流と合流し、また分離する(この支流は後述する)。その後何本かの放水路で再び水を江戸川に流したのち、さらに松戸市を南下する。そして、市川市国府台三丁目で、本流が江戸川にそそぐ。全長は16km。 沿革坂川は、昔は逆川(さかがわ)といい、沿岸は沼が点在する、葦のおい茂る低湿地であった[2][3]。坂川では、1692年(元禄5年)の新田開発により、沿岸(現在の新松戸、旭町、栄町等)に新田ができた。 逆川はそれらの新田に度々洪水を起こし、3年に1度収穫があればよい程度の不作ぶりであった。新田で堰を高くすると上流が洪水になってしまい、そのための争いも起こった。1781年、上郷名主の渡辺庄左衛門充房が国府台下までの掘削を初めて幕府に請願し、1801年に幕府が視察に訪れた。しかし、下郷7ヶ村(古ヶ崎・根本・小山・上矢切・中矢切・下矢切・栗山)が干ばつの心配を恐れ反対し、結局その請願は保留となった。 1812年に渡辺庄左衛門充房が死亡し、翌年、渡辺庄左衛門(寅)のときに一本橋から松戸宿までの掘削が開始された。しかし洪水予防の効果がなく、さらに国府台下までの掘削の請願までも繰り返したため、下郷7ヶ村との対立は続いた。 1833年、渡辺庄左衛門(睦)が国府台下までの掘削の測量を開始したが、これに反対する下郷7ヶ村の村民が反対のため浅間山(松戸市)に立てこもり争いとなる。それが飛び火し、古ヶ崎村から測量に来た百姓に死者まででる事態となった。見かねた奉行所の調停により、1835年から国府台下までの掘削が開始された。これにより洪水被害はやや収まった。 1909年に、樋野口に蒸気機関の当時、東洋一と言われた排水機場が造られた[4]。また、1932年(昭和7年)より新坂川の掘削が開始され、坂川を排水、新坂川を用水として機能するようになり、現在に至る。 支流坂川には数多くの支流が存在する[5]。 その支流の複雑さからgoogle mapに支流の表記が誤って江戸川と表記されたこともある。 生物以前は水質が汚かったが、現在はBODが5~7程度ときれいになりつつある。そのため、確認される魚も増えていて、メダカやアユなども確認された。現在は40種類ほどの魚が生息している[7]。 マガモ・カルガモ・キンクロハジロなどの鳥が確認されており大金平橋より上流とその川沿いにはカワセミやキジが生息している。 鯉のぼり坂川では、毎年ゴールデンウィークのとき、坂川の清流化を願い、「坂川に清流を取り戻す会」が中心となって、350匹の鯉のぼりを上げる。これは平成6年から行っており、坂川の馬橋旭橋から松栄橋までの約2km区間にあげられる[8]。 橋梁坂川
坂川放水路
脚注
関連項目 |