唐継尭
唐 継尭(とう けいぎょう)は清末民初の軍人・政治家。滇軍(雲南軍、雲南派)の創始者。中華民国の初代貴州都督。民国初期の10数年にわたり、雲南省を統治した。弟は唐継虞。子は唐筱蓂。字は蓂賡。別号は東大陸主人。 生い立ち清末1903年(光緒29年)、唐継尭は清朝の秀才に合格する。翌年、日本に留学して、東京振武学校(士官学校の予備校)に学ぶ。学期間で孫文の中国同盟会に参加し、また、革命派学生による雑誌『雲南』の編集にも関わった。光緒32年(1906年)夏に東京振武学校を卒業し、翌1907年6月に陸軍士官学校に入学した。 1909年(宣統元年)に帰国した後に、雲貴督練公所参謀処提調、雲南陸軍講武堂教官を経て、新建陸軍(新軍)に入隊した。新軍第19鎮正参謀官、第74標第1営管帯(営長)、雲南陸軍講武堂監督を歴任している。1911年(宣統3年)、彼は蔡鍔を招聘した上で、その指揮の下、昆明で武昌起義(辛亥革命)に呼応、蜂起した(昆明重九起義)。新たに組織された大漢雲南軍政府の下で、唐継尭は軍政部・参謀部両部の次長を兼任し、さらに雲南陸軍講武堂総弁となる。 辛亥革命から護国戦争まで1912年(民国元年)3月、唐継尭は滇軍を率いて貴州省に向かい[1]、貴陽を占領した。唐は現地の支持勢力から貴州臨時都督に推薦され、同年5月、袁世凱の北京政府から正式に貴州都督に任命された。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、唐継尭は袁世凱を支持し、孫文らに与する四川の熊克武率いる軍を攻撃した。同年11月、唐は雲南省へ戻り、蔡鍔の後任として雲南都督に就任した。1914年(民国3年)、開武将軍(すなわち、雲南将軍)に任命されている。 しかし1915年(民国4年)12月、袁世凱が帝位につこうとすると、唐継尭はこれを不満に思う。そして、再び蔡鍔を迎え入れて雲南の独立を宣言し、討袁を目指すことを公にした。これにより、護国戦争が勃発し、唐は護国軍第3軍総司令となる。初期は苦戦したものの、世論の後押しもあって各省将軍が次々と反袁独立を表明していく。翌年3月22日に袁は皇帝即位の取消しに追い込まれ、さらに6月6日に病死した。蔡鍔も同時期に死去している。 護法運動から最初の失脚まで袁世凱死去後に、唐継尭は孫文の護法運動に参加し、雲南の指導者として南方政府の重鎮となった。しかし1917年(民国6年)9月、孫文が広州で護法軍政府を組織して大元帥となると、唐は広西省の陸栄廷と共に元帥に選出されたが、孫文の下風に立つことを拒み、就任しなかった。次に、1918年(民国7年)5月に軍政府が改組され、孫、唐ら7人の総裁による集団指導体制になると、唐は総裁就任に応じた。まもなく、唐は護法戦争を支持するための「靖国軍」を組織して、四川省などの各省への対外拡張を図り、同年9月には、西南の各軍司令官と重慶で会議を開き、唐は靖国軍八省[2]聯軍総司令を自称した。 しかし、同年8月に岑春煊が主席総裁となり、陸栄廷ら桂軍(広西軍、広西派)が護法軍政府で主導権を握ると、唐継尭はこれに不満を持つようになる。そこで今度は、総裁就任を拒否した孫文や唐紹儀、さらには伍廷芳などと連携する。1920年(民国9年)10月、孫・唐らを支持する広東軍の陳炯明により、岑は引退に追い込まれ、桂軍は広東から駆逐された。 唐継尭は民国9年(1920年)6月に「民治」を主張し、当時の聯省自治運動と連動した。その一方で、雲南1省の支配者に留まることを望まず、他の省への影響力も保持・拡張しようと図る。さらに密かに北京政府の呉佩孚と連合するなどした。しかし民国10年(1921年)になると、四川省駐屯の滇軍は地元の川軍により駆逐されてしまう。さらに同年2月、駐川(四川)滇軍第1軍軍長顧品珍が、雲南へ戻るや唐に対してクーデタを起こし、唐は香港へ逃走した。 最後の失脚民国11年(1922年)3月、唐継尭は部下の竜雲らの支援を得て雲南へ帰還し、顧品珍を倒して復権した[3]。なお、この年には、東陸大学(今の雲南大学の前身)を創立している。 その後も、唐継尭は他省への進攻を繰り返したが、やはり失敗を続け、省財政を逼迫させる。しかも、孫文死後、蔣介石らが指導者となった中国国民党の北伐には与さず、雲南省で民治党を組織して、独自勢力の維持に固執した。その結果、唐継尭は民国16年(1927年)2月6日に、部下の軍長である竜雲、胡若愚らのクーデタに遭い失脚し(「2・6政変」)、雲南省務委員会総裁という名目だけの地位に落とされ、軟禁された。 同年5月23日、唐継尭は昆明で病死した。享年45(満43歳)。唐の墓は、円通動物園(昆明市)に所在している。 注参考文献
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