吉備上道田狭
吉備上道 田狭(きびのかみつみち の たさ、生没年不詳)とは、古墳時代の5世紀後半に活動した吉備上道国出身の豪族で、上道国造。姓は臣。田狭臣とも。 一族について上道臣は、吉備国上道郡一帯を支配した上道国造を務めた豪族で、孝霊天皇の皇子・稚武彦命を祖先とする、と伝えられている。 鉄・塩・瀬戸内の海上交通を牛耳り、大王と姻戚関係を結び、内外の軍事行動に深く関与することで、王権中枢に参画したようである。『日本書紀』巻第十には、応神天皇の妃として、御友別命の妹である兄媛の名前がある[1]。 造山古墳(岡山市新庄下)・作山古墳(総社市三須)・両宮山古墳(赤磐市穂崎・和田)など、天皇陵に匹敵する巨大古墳は、上道臣や下道臣(下道国造)その首長の権力の現れである。 記録『日本書紀』によると、田狭は宮殿のかたわらで、朋友に盛んに自身の妻、稚媛(わかひめ)の美貌を以下のように褒め称えた、という。
これに耳を傾けて聞いていた雄略天皇は、稚媛を女御にしようと望んだ。田狭を任那国司(派遣官)に任命し、その留守中に、稚媛を後宮に入れてしまった。この場合の「任那国司」とは、不定期に特定目的でヤマト王権から派遣された使者を示すものと考えられる。この記載によれば吉備氏は加耶を拠点として新羅と通じ、葛城氏とも婚姻関係を有していた。また同年条には吉備下道前津屋による雄略天皇への反乱伝承が語られており、吉備臣は雄略との対立的要素をはらんでいた。雄略は「天皇親ら新羅を伐たむと欲す」として、四人の将軍を任命し新羅征討を命じた。このように雄略は反新羅の立場であったが、田狭は子の吉備上道弟君が雄略の命令に反して新羅を討たなかったことを喜び、「吾は任那に拠り有ちて,亦日本に通わじ」と明言しているように、雄略とは異なる立場、すなわち親加耶・新羅の立場が明瞭である。子の弟君には「百済」と連携して「日本」に対抗する立場を示しているように、基本的には加耶の独立を維持する立場から周辺諸国との連携を維持することを指示している。これは加耶諸国の外交方針と一致し、現地の立場を代弁するものであったと考えられる。こうした活動は、後述するよう に新羅・百済の侵攻を排除し加耶の独立を維持しようとする後の「任那日本府」の活動に連続するものである[2]。 なお、別伝では、「天皇、体貌(みなり)閑麗(きらぎら)しと聞(きこ)しめして、夫を殺して自ら幸(つかは)しつ」ともあり、この場合は、田狭はこの時になくなっており、以下の記述は成立しなくなる。 この出来事を聞いた田狭は、(復讐のため)援助を求めに新羅に入国しようと思った。 田狭と稚媛との間には、既に成人した二人の息子がいた。 その後、天皇はその田狭の子の一人である弟君(おときみ)を吉備海部直赤尾(きびのあま の あたい あかお)とともに新羅討伐に派遣したが、息子が新羅を討たずに朝鮮半島に滞在したままであることを父親である田狭は喜んだ。彼は秘密裏に百済に人を遣わして、弟君を戒め、「お前の首はどれだけ固く、人を討てるというのか、伝え聞くところでは、稚媛と天皇との間には子供が居るらしい」と伝えた。そして、百済で自立し、大和朝廷から離叛することを勧め、自分は任那から日本へは通うまいと伝えた。しかし、その事が原因で弟君は朝廷への信奉の念の強い妻の樟媛(くすひめ)によって人知れず殺され、寝室の中に埋められてしまった、という[3]。 以上の出来事が、西暦に換算すると、463年に日本と朝鮮半島で起こった、と『書紀』には記録されている。これは倭王武が半島に侵入し、南朝の宋の順帝の昇明2年(478年)に上表文を奉り、「安東大将軍」に除せられた[4]という記述とも対応している。新羅側の記録にも、慈悲王と炤知王の時代の459年、462年、463年、476年、477年、479年、482年、486年、493年、497年、500年に「倭」が侵入したという記載がある[5]。 以後の田狭の行方は杳として知れぬままである。 雄略天皇23年8月(479年)、天皇が崩御した際に、稚媛が弟君の兄である兄君(えきみ)らとともに、息子の星川稚宮皇子(ほしかわ の わかみや の みこ)を擁して反乱を起こす。この時に援軍にかけつけようとした「吉備上道臣」は、田狭であった可能性もある[6]。 なお、雄略天皇の三人の妃の中にいる稚媛は、「吉備上道臣の女(むすめ)」・「吉備窪屋臣(きび の くぼや の おみ)の女」とあげられている[7]ので、田狭はその婿であったとも推定される。 別本では、田狭の妻の名前は毛媛(けひめ)といい、葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)の子の玉田宿禰(たまだ の すくね)の女である、とも記述されている[3]。吉田晶は、この別伝に注目し、この場合は分注の方に信憑性があり、田狭には二人妻がいたこと、吉備氏が葛城氏と連合しようとして失敗したこと、さらに吉備勢力と朝鮮半島南部との間には、独自の密接な関係性があったことを指摘している[8]。 佐藤雄一は、別伝の方が元来伝えられていた「家記」の原伝に近いものであり、本文は他の氏族の「家記」や伝承をもとに手を加えられたものであると述べている[9]。 末裔『日本書紀』巻第十九に登場する欽明天皇の時代に活動した吉備弟君を田狭の子孫とする説が存在する[10]。 脚注参考文献
関連文献
関連項目 |