Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

内藤繁春

内藤繁春
騎手時代の内藤(1956年頃)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県碧海郡高浜町
(現・高浜市
生年月日 (1931-01-12) 1931年1月12日
死没 (2013-08-12) 2013年8月12日(82歳没)
騎手情報
所属団体 国営競馬
日本中央競馬会
所属厩舎 中山・鈴木信太郎(1950年 - 1954年
小倉・千倉政雄(1954年 - 1956年
京都・久保道雄(1956年 - 1958年
京都・日迫清(1958年 - 1960年
京都・鈴木和雄(1960年 - 引退)
初免許年 1952年
免許区分 平地障害
騎手引退日 1968年
重賞勝利 7勝
通算勝利 2925戦307勝
調教師情報
初免許年 1968年(同年開業)
調教師引退日 2001年2月28日定年
重賞勝利 25勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 11201戦893勝(中央のみ)
経歴
所属 京都競馬場(1968年-1978年
栗東T.C.(1978年-引退)
テンプレートを表示

内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2013年8月12日[1])は、愛知県碧海郡高浜町(現・高浜市)出身の元騎手・元調教師・元馬主。管理馬通算出走11201回という中央競馬の史上最多記録を打ち立て、調教師として定年引退間際の2000年に騎手復帰を試みたことで話題を集めた。

実兄・博司は東海地方で飲食店をチェーン展開する株式会社だるまの創業者、同社会長で馬主の内藤耕造は甥である。

経歴

少年期

実家は名古屋コーチンを生産する養鶏場を営んでおり[2]太平洋戦争を経て、戦後は定時制高校に通いながら鉄工所やの製造会社に就職したが、工場内で排出される煤煙で肺を病み休職を余儀なくされて高校も中退[3]。休養中に高校時代の友人と地方公営・岡崎競馬場を訪れたことをきっかけに騎手を志すが[4]、この希望は父親から猛反対を受けたものの、兄・博司の取りなしにより許可を得る。

騎手時代

博司の知人を通じて名古屋の騎手兼調教師・光岡直三郎を紹介され[5]、光岡は内藤に対し規模の大きい国営競馬で騎手になることを勧め、京都武田文吾を紹介する。武田は半年前に騎手見習いとして栗田勝を受け入れたばかりであり、この移籍話は流れた[6]。その後に改めて中山・鈴木信太郎厩舎を紹介され、1950年に騎手見習いとして同厩舎に入門[6]。当年には博司も名古屋市内に寿司店を開業[6]1952年には騎手免許を取得して正騎手としてのデビューを迎えるが、騎乗機会が極度に少ない時期が続いたため、1954年には小倉・千倉政雄厩舎へ移籍[7]1955年2月に初勝利を挙げると当年は9勝をマークしたが、1956年2月の障害競走中に騎乗馬が転倒し、下敷きとなった内藤は足首を骨折。8ヶ月間の休養を余儀なくされ[8]、復帰後は京都に移り、浅見国一の紹介で久保道雄厩舎に移籍[9]。この頃より勝利数を増やし始め、1958年には請われて日迫清厩舎に移籍して同厩舎の主戦騎手に収まった[10]

1959年3月にキヨスガタで大阪杯を制し、デビュー8年目で重賞初勝利を挙げる。年間通算では38勝を挙げて関西3位(全国8位)に付けると、同年には武田文吾らの師匠である鈴木甚吉の次女と結婚している。1960年に義兄の鈴木和雄が管理馬不足により厩舎廃業の窮地に立たされたため、立て直しを手伝うために鈴木厩舎へ移籍[11]。様々な伝を頼って馬を集め、寿司店を成功させていた博司にも馬主資格取得を頼み、所有馬を厩舎に預託させた[12]。これらの取り組みが功を奏して厩舎は再度軌道に乗り、1965年には所属馬のハヤコマでタマツバキ記念(春)を制し、自身の重賞2勝目を挙げた。この頃より他厩舎からの依頼が増えて成績が向上し、1966年にはエイトクラウンに騎乗して牝馬初の宝塚記念制覇を達成。1967年にはタイヨウで宝塚記念連覇を果たし、同年は自己最高の53勝を挙げて関西2位(全国4位)を記録。中京での活躍が目立ったことから、マスコミから「中京の小鬼」との異名も付されるなど活躍したが[13]1968年に鈴木が急死。厩舎の解散を防ぐために内藤は騎手として充実期にありながら調教師への転身を余儀なくされ、同年に現役を引退[13]。騎手通算成績は2895戦307勝、うち重賞7勝。

調教師時代

騎手引退の同年に京都の厩舎を引き継ぎ、調教師として開業。2年目の1969年には早くも51勝を挙げて全国8位に付けると、1970年にはクニノハナ京都牝馬特別を制し、重賞初勝利を挙げる。同馬はその次走で牝馬三冠の最終戦として創設された第1回ビクトリアカップを制し、同競走の初代女王となった。その馬主は兄・博司であり、これが重賞に勝利した初めての所有馬となった。

以後も関西の有力調教師として確固とした地位を築き、1979年菊花賞では管理馬のハシハーミットとハシクランツで1、2着を独占し、騎手時代に勝てなかったクラシック制覇を果たした。1991年有馬記念では、ダイユウサクが弟子の熊沢重文を背に15頭中14番人気で出走し、単勝1.5倍と圧倒的な支持を受けていたメジロマックイーンを最後の直線で差しきり、日本レコードでの優勝が話題を集めた。この時の内藤は勝利時の記念撮影に備えてきちんと正装して当日に現れ、他の関係者には「(正装して)どうしたんですか?」と散々からかわれていたが、レース後には皆黙ってしまったという逸話があり、勝つ自信があったことを裏付けている。

一方で1996年スプリンターズステークスではエイシンワシントンが僅か1cm[14]の差でフラワーパークに敗れ、GI史上まれに見る接戦としてJRAのCM内でも語られた。内藤の管理馬には地味な血統の安馬が目立ったことで知られたが、これについて内藤自身は「私は何も地味な血統の馬が好きなわけではない」としながらも、良血の高額馬は馬主が大きく損をする可能性もあるため、「金銭的な負担を少なくして、競馬を楽しんでもらう。これが私の厩舎の方針だった」としている[15]。息長く現役を続ける馬も数々おり、開業初年度に北海道で育成専門の優駿牧場(現・待兼牧場)を設置し、内藤自身の方針で若駒時代から強い体質を持つ馬の育成に当たった[16]

定年後、騎手免許試験受験

調教師の石坂正は同場の従業員から内藤厩舎の厩務員となり、のちに独立している。調教師の70歳定年を翌年に控えた2000年10月、内藤は突如として日本中央競馬会の騎手免許試験受験を発表。要項には16歳未満の受験を認めない旨が明記されていたが、上限年齢については定められておらず、競馬会も「願書の受け取りを拒否する理由はない」として受験を容認した。69歳にしての騎手復帰への試みは、一面で報じるスポーツ紙も現れるなど、幅広い注目と応援を集めた。だが1次試験の学科に手こずり、走路試験、障害試験でも馬を止められなかったり指定されたコースを回れないなど[17]、約30年ぶりの騎手再挑戦は厳しいものであった。試験終了後の記者会見では「手応えはあります」と合格に自信を覗かせたが、結果は不合格に終わった[17](仮に合格していたら、内藤が中央競馬最高齢騎手[18]ということになっていた)。

翌年の受験にも意欲を見せていたが、試験後より視力の低下が進み、手術を行うも要項で定められた規定の視力[19]を保つことができず断念した[20]。のちに受験を回想し、「今にして思えば、70歳の『定年調教師』が無謀にも騎手を目指し、世間を騒がせて恥ずかしい限りだ。あえて言い訳をさせてもらうなら、私は死ぬまで馬の世界に身を置きたかった。馬とともに生き続けることだけが目標だった」と語っている[21]

2001年2月28日を以て調教師を引退。通算成績は11201戦893勝。通算出走数は中央競馬史上最多記録。管理馬は湯窪幸雄、石坂正厩舎などに分散して引き継がれた。引退後は公営・園田競馬馬主資格を取得している[22]。2013年8月12日朝に死去。82歳没。

通算成績

騎手成績

区分 1着 2着 3着 4着以下 騎乗数 勝率 連対率
1952年 平地 0 0 0 6 6 .000 .000
1953年 平地 0 0 1 14 15 .000 .000
障害 0 0 1 5 6 .000 .000
1954年 平地 0 1 1 6 8 .000 .125
障害 0 3 2 11 16 .000 .188
1955年 平地 5 10 6 143 164 .030 .091
障害 4 6 5 41 56 .071 .179
1956年 平地 8 15 16 148 187 .043 .123
障害 3 3 7 32 45 .067 .133
1957年 平地 16 21 16 121 174 .092 .213
障害 6 10 8 22 46 .130 .348
1958年 平地 19 19 13 116 167 .114 .228
障害 2 3 1 16 22 .091 .227
1959年 平地 37 39 40 148 264 .140 .288
障害 1 0 1 4 6 .167 .167
1960年 平地 12 21 17 101 151 .079 .219
障害 1 0 0 2 3 .333 .333
1961年 平地 15 5 13 104 137 .109 .146
障害 0 0 1 15 16 .000 .000
1962年 平地 5 10 7 75 97 .052 .155
1963年 平地 19 17 15 109 160 .119 .225
1964年 平地 17 24 25 169 235 .072 .174
1965年 平地 33 17 30 208 288 .115 .174
1966年 平地 43 33 30 196 302 .142 .252
1967年 平地 53 37 46 163 299 .177 .301
1968年 平地 8 6 4 38 56 .143 .250
平地 290 275 275 1,870 2,710 .107 .208
障害 17 25 26 148 216 .079 .294
総計 307 300 301 2,018 2,926 .105 .207

主な騎乗馬

調教師成績

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 769 774 833 7,750 10,236 .076 .150
障害 124 127 128 696 1,075 .115 .233
893 901 961 8,446 11,201 .080 .160
  • 初出走 1968年3月5日ツキノベル(3着)
  • 初勝利 1968年7月2日ポットイーグル

主な管理馬

主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

脚注

  1. ^ 訃報:69歳で騎手免許挑戦、内藤繁春元調教師が死去 67 burogu 2013年8月18日閲覧
  2. ^ 木村(1997)p.748
  3. ^ 木村(1997)p.749
  4. ^ 木村(1997)pp.749-750
  5. ^ 木村(1997)p.750
  6. ^ a b c 木村(1997)p.749
  7. ^ 内藤(2005)pp.41-43
  8. ^ 内藤(2005)pp.57-58
  9. ^ 内藤(2005)p.59
  10. ^ 内藤(2005)p.67
  11. ^ 内藤(2005)pp.68-69
  12. ^ 内藤(2005)p.69
  13. ^ a b 内藤(2005)p.66
  14. ^ 内藤の著書によれば7ミリメートル(内藤(2005)p.143)
  15. ^ 内藤(2005)p.152
  16. ^ 内藤(2005)pp.153-154
  17. ^ a b 内藤(2005)p.20
  18. ^ 厳密には、調教師から騎手への復帰
  19. ^ 中央競馬騎手の場合は0.8以上、地方競馬騎手の場合は0.6以上の視力が必要。
  20. ^ 内藤(2005)p.22
  21. ^ 内藤(2005)p.23
  22. ^ 内藤(2005)p.197

参考文献

関連項目

Kembali kehalaman sebelumnya