全国都道府県選抜競輪全国都道府県選抜競輪(ぜんこくとどうふけんせんばつけいりん)は、1951年より1969年(開催は1968年まで)まで行われた競輪の特別競輪(現在のGI競走に相当)である。 現在のGI・全日本選抜競輪の前身とされる。 概要大会創設当初は全国都道府県対抗争覇競輪という名称で行われた。他の特別競輪と異なり、各地区ごとの対抗戦という意味合いを持っていたため、競走種目は男女別に加え、男子のみ距離別も設けられるなど細分化され、表彰も都道府県対象と個人対象とに分かれていた。 1951年8月に大宮競輪場で第1回が開催され、1959年の第16回大会までは年2回開催が行われていた。 1962年の第19回大会(門司競輪場)までは、競技種目は男子部と女子部に分かれていた。さらに男子部は距離別として1000(場によっては800、1200)、2000、4000メートルの3種目(当初は1000、2000、3000、6000メートルの4種目)が行われていた。距離別種目は1959年の第16回大会(立川競輪場)より2000、4000メートルの2種目となり、1963年の第20回(西武園競輪場)からは4000メートル(第23回大会〔西宮競輪場〕のみ3010メートル競走)に一本化された。 後発の競艇でも、同大会と似た趣旨の全国地区対抗競走が開催されるようになった(1955年より1973年まで開催)。 廃止への経緯本大会は1969年に廃止されるが、直接の原因となったのは、当年の第26回大会の中止であった。 第26回大会は、1969年8月29日から、甲子園競輪場で開催されることが決定していた。ところが大会の開幕が近づくにつれて周辺住民の開催反対運動が激化し、大会10日前に中止の決定がなされた。 反対運動の背景には、19年前の鳴尾事件の後遺症が拭えていない事に加え、競輪人気の過熱化で露呈した警備上の問題があった。1960年の第16回全国争覇競輪(後楽園競輪場)、1965年の第10回オールスター競輪(川崎競輪場)において観客がバンク内になだれ込む事態が生じ、後楽園、川崎両場は特別競輪の開催を自粛[1]。それがもとになって、開催場が固定されていた高松宮賜杯(大津びわこ競輪場)、競輪祭(小倉競輪場)、秩父宮妃賜杯競輪(西武園競輪場)以外の特別競輪については開催を引き受ける施行者はなかなか現れず、開催場の決定は難航していた。 また、第26回大会中止事件とは別の問題もあった。全国争覇競輪は1964年第17回大会から名称を「日本選手権競輪」へと改めるが、全国争覇競輪時代にあった実用車・軽快車部門は廃止されていた。この結果、距離別種目を縮小していった都道府県選抜競輪と日本選手権競輪とは似たような開催運営方式となっていき、都道府県選抜競輪の存在意義も疑問視されていた。 従って、第26回大会中止がいい契機と考えられたのか、翌年の第27回大会を引き受ける施行者は現れず、そのまま廃止となってしまった。 ちなみに甲子園競輪場では、第26回都道府県選抜競輪の中止の余波を以後も受け続け、1968年まで毎年開催されていた開設記念「甲子園ゴールデン杯」の開催までも中止に追い込まれた。甲子園競輪場で開設記念が再開されたのは1985年であり、特別競輪の開催が実現したのは1999年の第42回オールスターであった。だがその3年後の2002年3月、甲子園競輪場は西宮競輪場とともに閉場された。 全日本選抜競輪の誕生1985年に新設された特別競輪『全日本選抜競輪』は、都道府県選抜競輪を参考にしたものだった。 当時競輪界では売上げ低下に悩まされ、カンフル剤として特別競輪の新設が検討されていた。そこで、当時はビッグレースがそれまで存在しなかった夏季に主として避暑地の地方都市を舞台に開催することを目指し、当時はどの特別競輪においても取り入れられていなかった、各地区ごとに選手を選出する大会として全日本選抜競輪を誕生させることになった。全日本選抜競輪の開催趣旨としては、都道府県選抜競輪の当初の開催趣旨と類似していたことになる。厳密には模倣ではないが、関連性は非常に深い。 歴代優勝者
死亡事故第24回大会で、中村政光(千葉)が競走中の事故により死亡した。 脚注関連項目 |