信藤三雄
信藤 三雄(しんどう みつお、英語: Mitsuo Shindō、1948年1月26日[1] - 2023年2月10日[2])は、日本のアートディレクター、映像ディレクター、映画監督。東京都出身。 松任谷由実、Mr.Children、サザンオールスターズ、SMAP、MISIAなど、手がけたCD/レコードジャケットの数は2007年時点で約900枚にのぼる[3]。1980年代後半から1990年代にかけて、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギターといった「渋谷系」ミュージシャンのCD/レコード、宣伝材料一式のアートワークに携わり、渋谷系におけるデザインの方向性を決定づけたといわれる[4][5][3]。 グラフィックデザイン以外にも、映像作家としてミュージック・ビデオや映画も手がける。近年は社会活動にも積極的にかかわる。元バンド「スクーターズ」のギターでリーダー(1982年デビュー)。 妻は元ハイポジのボーカル、風水アドバイザーのMirey(もりばやしみほ)[6]。 来歴1970年3月、駒澤大学経済学部経済学科卒業[7]。大学時代は広告研究会に在籍[8]。デザイン学校を卒業した後[3][8]、百貨店業界誌「デパートニューズ」[9]の記者[3][8]となるが、自分には記者は向いていないと判断して半年ほどで退職[9]。一般企業をクライアントとするデザイン事務所[8][3]に勤めた[10]。 その後、フリーのデザイナーとしての活動と同時に、「マギー・シン」名義[11]でスクーターズのギター兼リーダー[12]としてバンド活動を行う[3]。1982年にデビューしたスクーターズは、シングル1枚、アルバム1枚をリリースしたのみで解散する[3][11]。 アートディレクターとして1984年、松任谷由実のシングル『VOYAGER〜日付のない墓標』、アルバム『NO SIDE』のジャケットデザインを担当し、本格的にジャケットデザインに携わるようになる[3][13]。1985年、自身のデザイン事務所を設立[3]。設立当初はシンチャン・スタジオ (Sing Chang Studio) [14]といったが、すぐに有限会社コンテムポラリー・プロダクション (C.T.P.P.) に改名した[14]。 1986年、ピチカート・ファイヴのシングル『ピチカート・ファイヴ・イン・アクション』のジャケットを手がけたのを皮切りとして、その後ピチカートのほとんどのCD/レコードのアートディレクションを担当するようになる[3]。「自分と同じ価値観を持つ人/アーティストだった」[3]と彼が評する小西康陽とのコンビにより新しいアイデアを盛り込んだデザインを次々に発表していった[3]。ピチカートのほかにも、フリッパーズ・ギター、オリジナル・ラヴ、小山田圭吾のトラットリアレーベル、クレモンティーヌといった、いわゆる「渋谷系」にカテゴライズされるCD/レコードのジャケットデザインを数多く手がけた[5][3]。川勝正幸はCTPPを「『渋谷系のCI』と言っても過言ではない大きなヴィジュアルの流れを作った」[4]と評し、そのジャケットデザインの特徴を以下のようにまとめている。「①音楽性やテーマをワン・アイデアで、明解にヴィジュアルに翻訳している。②マニアックなネタを素にしながらも、メジャー感がある。つまり、デザインにフェロモンがある。③ミュージシャンと一緒に走っている勢いがデザインにもある。要するに、同時代性を感じさせる。④業界のオキテ破り的な、特殊パッケージが多い」[15]。 ジャケットデザインにおける特徴のひとつである外国の雑誌、広告、レコード、ポップアートといった過去のポップカルチャーからの“引用”[5][16][3]は、ちょうど渋谷系の音楽的な特徴とも同調していた[5]。特殊パッケージの積極的な使用については「動機はCDが登場してからデザインの面が小さくなっちゃったから、単純に考えるとつまんないじゃないですか、それをいかに面白くするかなんですよね。子供がおもちゃを買ってうれしいな、みたいなシンプルな動機の実現ていうか。シールが入ってたり、組み立てられる何かがあったり、そういうことを考えるのが楽しくて」[17]とその理由を語る。1980年代後半の媒体がアナログレコードからCDに切り替わっていった時代については「CDの、プラスチック・ケースの手触りが嫌だったんだよねえ。だから泣く泣くCDのデザインをやってました」[18]「実はあの頃のピチカートとフリッパーズで、やっと“CDというフォーマットで何が出来るんだろう?”と真剣に考え始めたんですね。やっぱり何だかんだ言ってもアナログをデザインしたいんです。でも出来ないから一種の代理戦争みたいな…。CDでのデザイン的な戦いというか」[18]と振り返っている。両面印刷のバックインレイ(背ジャケット)を見せるためにCD盤の受け皿を透明トレイにするというアイデア(発案は小西による[14][5])の採用は、1989年リリースの『女王陛下のピチカート・ファイヴ』がおそらく世界初、または初めてではなくても相当に早かった[19]といわれ、その後のCDパッケージのデザインにおいてポピュラーなものとして定着した。 2011年6月11日、株式会社 信藤三雄事務所を設立。 2016年12月、株式会社ホワイトブリーフとマネージメント契約。 その他の活動1990年代以降、映像作家として多くのミュージックビデオをディレクションしている。2003年、桑田佳祐の「東京」のPVが「SPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDS “BEST VIDEO OF THE YEAR”」を受賞した[3]。1995年12月にフジテレビで放映されたオムニバスドラマ『聖夜の奇跡』第2話「聖者が街にやってくる」を監督[14]。1998年に『代官山物語』で映画監督デビュー。2003年、リリー・フランキー脚本による短編映画『男女7人蕎麦物語』を監督。2006年、初の劇場用監督作品となる『男はソレを我慢できない』が公開された[3]。 1998年、レコードレーベル・CTPR(コンテムポラリー・レコーズ)を設立[20]。映画『代官山物語』のVHSや信藤がプロデューサーを務めるハイポジのCDが同レーベルからリリースされた。 スクーターズ時代の楽曲「東京ディスコナイト」(信藤は共同作曲者としてクレジットされている)は1992年に小泉今日子によってカバーされた。スクーターズは2003年に過去の音源をまとめたアルバムがリリースされ、2012年に30年ぶりとなる新作アルバム『女は何度も勝負する』を発表した[21]。 2003年、短編映画「男女7人蕎麦物語」を発表。 2005年、「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーン(ホワイトバンド・プロジェクト)の映像ディレクターおよびアートディレクターを担当[3]。 2006年夏、初の劇場長編映画「男はソレを我慢できない」を発表[22]。同年秋、坂本龍一をソトコト増刊「エロコト」を創刊[23]。 2008年8月、音楽フェスティバル「WORLD HAPPINEES」のキュレーターを高橋幸宏とともにつとめ[24]、信藤本人も初年度の2008年に「NRT320」として野宮真貴らとともに出演した。音楽とアートが持つメッセージパワーを活かし、世界をよりよくデザインするため、2010年に設立された一般財団法人mudef副代表理事に就任。 2011年、脱原発をめざすクリエイター集団「The Maskz(ザ・マスクズ)」が信藤を中心に発足し、活動を始めた。[25]メンバーにはBOSE(スチャダラパー)、湯山玲子らが名を連ねる[26]。 2016年、岡山県出身の歌手「Little Black Dress」の名付け親となる[27]。 2018年、世田谷文学館にて企画展「ビーマイベイビー 信藤三雄レトロスペクティブ」を開催[28]。1980年代制作の初期作から最新の仕事までのアートワークを、レコード、CD、ポスター、写真、映像など1000点以上にわたる作品を通して紹介[29]され、この展覧会の図録として同名の作品集も平凡社より出版された[30]。 2018年3月、「MOIAUSSIBE (もーあしびー)」プロジェクトを開始。これは信藤が親交あるアーティストを講師として招聘するフリースクールであった[31]。 2023年2月10日、胃がんのため沖縄県の自宅で死去[2][32]。75歳没。 作品CDジャケットあ行
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