佐々淳行
佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年〈昭和5年〉12月11日 - 2018年〈平成30年〉10月10日)は、日本の警察・防衛官僚。危機管理評論家。 概要東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁。目黒警察署をふりだしに「東大安田講堂事件」「連合赤軍あさま山荘事件」などで警備幕僚長として危機管理に携わる。1986年からは初代内閣官房安全保障室長を務め、昭和天皇の大喪の礼を最後に退官。その後、文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍。「危機管理」という言葉のワードメーカー。1993年、『東大落城』で文芸春秋読者賞を受賞[1]。 経歴生い立ち熊本県出身の政治学者で、朝日新聞論説委員、参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。 またゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実と父の弘雄は朝日新聞の同僚記者として親交があり、ともに近衛文麿のブレーンとして昭和研究会、朝食会に参加していた[2]。尾崎は自宅に来ることも多く[3]、ゾルゲ事件が発覚すると、父の書斎にあった手紙、書類、名刺などを兄とともに焼却した[4]。父の弘雄は終戦まで特別高等警察と憲兵隊の捜査対象になったが、逮捕はされなかった[5]。 学生時代国民学校(尋常小学校)から、7年制高等学校である成蹊高等学校に進み[6]、1954年(昭和29年)3月に東京大学(旧制)法学部第3類(政治コース)を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。 東京大学法学部教授の堀豊彦から学士助手として大学に残るよう勧められたが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、警察三級職試験(現・国家公務員採用総合職試験)を受験して国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した[7]。警察三級職試験の合格席次は2番であった[8]。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[9]。 警察官僚として入庁後入庁後は、目黒警察署、警察大学校助教授、アメリカへの国費留学などを経て警視庁公安部外事課長代理となる。ソ連や北朝鮮などのスパイ事件の捜査指揮、第一次安保闘争末期の警備実施、アナスタス・ミコヤンソ連第一副首相来日の警護なども経験する。この際、伊藤忠社員時代の瀬島龍三をソ連のスパイとして捜査していた[10]。 27歳の若さで当時の大分県警本部長・富田朝彦の下で警務部長に抜擢され着任。旧自治体警察時代の名残りが強く、地元指定暴力団との癒着や汚職が多発していたため、警察署長や県警幹部を次々に処分。「首切り浅右衛門」の異名をとった。 その後、大阪府警察警備部外事課長を経て1964年1月よりケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇を担当した。 外務省出向1965年より外務省に出向し在香港日本国総領事館領事となる。1966年12月に起きた一二・三事件や1967年5月の中国共産党系暴動(六・七暴動)で在留邦人保護を担当。さらに1968年1月に南ベトナムサイゴンへ出張の際、テト攻勢に遭遇。サイゴンの日本大使館に籠城し、青木盛夫大使(ペルー日本大使公邸占拠事件当時の日本大使を務めた青木盛久氏の父)のもとで在留邦人保護にあたる。 警視庁警備部警備第一課長帰国後、1968年に警視庁公安部外事第一課長を経て警視庁警備部警備第一課長となる。この人事は、警備実施の指揮ができる警察官僚を集め組織強化を行っていた秦野章警視総監が中心となった半ば強引な措置で、全学共闘会議、東大安田講堂事件(1969年)[11]など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。 また機動隊に対して、戦術的後退や挟撃作戦などの発案、隊員の受傷防止のための個人防御装備の開発、特型警備車「防弾装甲放水車」の配備を実施。 三島事件1970年11月25日に起きた「三島事件」の際は警視庁警務部参事官兼人事第一課長だったが、上司の土田國保・警視庁警務部長から「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してやめさせろ」と指示を受け、警視庁から市谷の現場に駆けつけたが、三島自決には間に合わなかった。 後年佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[12][13]。 あさま山荘事件1971年11月、警察庁警備局付警務局監察官となる。この人事は警察庁警備局長・富田朝彦の意向で行われた変則的なものであった。慣例で警視正では警察庁課長職にはなれないため、空きがあった課長相当の警務局監察官となる。 局議で富田警備局長は「佐々警視正には警備課長の任務を区処して警視庁管内の警備を担当させ、それ以外は鈴木貞敏警備課長を担当とする」と各課長へ周知した。警備局では事実上の無任所課長として、極左暴力集団の事件、及び関連する警備実施の指揮を任された。1972年2月、あさま山荘事件[11]に警備実施及び広報担当責任者として、警察庁長官・後藤田正晴の指示で現地に派遣された。 警備局外事課長/警備課長1972年7月警察庁警備局外事課長となり、金大中事件、シンガポール事件、文世光事件に対応。1974年8月警察庁警備局警備課長に就任し、三菱重工爆破事件、ジェラルド・フォードアメリカ合衆国大統領来日警備、エリザベス女王来日警備、ひめゆりの塔事件、クアラルンプール事件など日本赤軍によって起こされた一連の日本航空ハイジャック事件などに対応した。 「ひめゆりの塔事件」では、7月17日の皇太子到着当時、皇太子および同妃の訪問に先立ち地下壕内の安全確認を主張したものの、沖縄県知事、沖縄県警察の担当者らに「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」と反対されたために実施できなかった[14]。 三重県警本部長皇太子および同妃の沖縄県訪問の警備責任者である佐々は辞表を提出したものの、受け取りを拒否され、1974年に三重県警察本部長に転任した。三重県警察では本部長として天皇の伊勢神宮訪問の警備などを担当した。 防衛官僚として防衛施設庁長官官房長その後、1977年より防衛庁に出向する。防衛庁では同人事教育局長、長官官房長[15] を歴任。官房長時代には1982年のブルーインパルス機墜落事件、1983年9月の大韓航空機撃墜事件などに対応。 防衛施設庁長官1984年7月、防衛施設庁長官に就任した[16]。厚木基地夜間離着陸訓練、池子住宅地区への住宅建設問題、三宅島新空港建設問題などを担当し、加藤紘一防衛庁長官と不仲で途中で辞任することも考えたが、1986年(昭和61年)6月に防衛施設庁長官で退官する。 初代内閣安全保障室長1986年7月1日、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任した[17]。中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑の3人の内閣総理大臣に仕える。安全保障会議事務局長も務める。 警察時代の上司でもある後藤田正晴内閣官房長官の下で、三原山噴火やなだしお事件、東芝機械ココム違反事件、昭和天皇大喪の礼、防衛費1%枠撤廃閣議決定などに対応した。1989年(平成元年)2月に行われた昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、同年6月に退官した。 退官後退官後は、後藤田正晴をはじめとする複数の政界有力者から、いわゆる天下りや、自由民主党からの政界入りを勧められたものの、それらを辞退して個人事務所を開設し、危機管理をライフワークとしてフリーで活動する道を選んだ[18]。現役官僚時代から著書が多く、退官後は多くの著書を上梓し、そのうちのいくつかはベストセラーとなり、「あさま山荘事件」など映画化された例もある。同作には本人も映画館の客としてカメオ出演している。 1990年(平成2年)の湾岸戦争では首相閣外補佐に就いた。またその後1994年には日米文化教育交流会議(CULCON)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事。1996年には新官邸危機管理懇談会のメンバーに選ばれる。 また1991年(平成3年)のソビエト連邦の崩壊、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)の在ペルー日本大使公邸占拠事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2003年のイラク戦争などの際には、コメンテーターとして民放やNHKなどのテレビ番組に出演している。 2006年(平成18年)7月には、日本美術刀剣保存協会の第7代会長・刀剣博物館館長に就任した。 2007年(平成19年)の東京都知事選挙では、親友であった石原慎太郎からの要請で、石原陣営の選挙対策本部長を務めた。このときに用いられた「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーは、佐々の発案によるものである[19]。 2012年9月5日、佐々、三宅久之、すぎやまこういちなど保守系の著名人28人は、同年9月の自由民主党総裁選挙に向けて、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を発足させた[20][注 1]。同日、同団体は安倍晋三の事務所に赴き、出馬要請をした[31][22]。9月26日、総裁選が実施され、安倍が当選した。 晩年晩年も活発に著作・講演活動を続け、またテレビ番組にコメンテーターとして出演していた。2018年10月10日午前2時40分、老衰のため東京都内の病院で死去[32][33][34]。87歳没。 年譜
系譜戦国時代の武将・佐々成政[36]、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。 西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌を創設し、衆議院議員を務めた佐々友房は祖父。政治学者で参議院議員の佐々弘雄は父。朝日新聞記者・作家の佐々克明は兄。日本婦人有権者同盟会長で参議院議員の紀平悌子は姉[37]。 エピソード
栄典・受賞歴
著書
編著・共著
翻訳
佐々淳行を演じた俳優
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目(本文中にリンクがあるものを除く) 外部リンク
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