伊藤茉央
伊藤 茉央(いとう まお、2000年11月19日 - )は、福島県耶麻郡塩川町(現:喜多方市)出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。中日ドラゴンズ所属[2]。 経歴プロ入り前喜多方市立塩川小学校3年生の時に、塩川ブルーファイヤーズで野球を始める。喜多方市立塩川中学校では同校の軟式野球部に所属[3]。 地元の福島県立喜多方高等学校に進学すると、2年秋の時に当時の監督の勧めでサイドスローに転向[4][5]。最後の夏は、福島県立郡山高等学校に敗れて3回戦敗退。 その後、東京農業大学硬式野球部のセレクションに参加したが声がかからず、投球を見ていた東京農業大学北海道オホーツク硬式野球部助監督の嶋田達郎の勧めで、北海道網走市にある東京農業大学生物産業学部への進学を決意[6]。東京農業大学生物産業学部自然資源経営学科に進学し、北海道学生野球連盟に所属する同キャンパスの硬式野球部に入部した[7]。1年春から公式戦と全国の舞台を経験し、救援投手としてチーム歴代最高の全日本大学野球選手権大会ベスト4入りに貢献[8]。1年秋には北海道学生リーグ最優秀投手とMVPに選ばれた。その後はチームの主力投手として、全日本大学野球選手権大会や明治神宮野球大会などの全国の舞台を複数回経験した。 同年10月20日のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから4位指名を受け、11月21日に契約金4500万円、年俸820万円で合意した。背番号は41[2]。担当スカウトは益田大介[9]。 楽天時代2023年は開幕一軍入りを果たし[10]、4月1日の北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初登板となったが、四球→暴投→犠打で一死三塁のピンチを招いて降板し、継投した弓削隼人が適時打を許して伊藤にプロ初失点が記録された[11]。同18日のオリックス・バファローズ戦では0-1の7回裏を6球で三者凡退に抑えると、直後にチームが逆転して勝利したことでプロ初勝利を挙げた[12]。4月23日の日本ハム戦ではプロ初ホールドも記録したが[13]、5月5日の日本ハム戦は2/3回を2安打2失点。13試合の登板で1勝0敗3ホールド・防御率3.72という成績[14]で同8日に出場選手登録を抹消された[15]。その後は再登録[16][17]と登録抹消を2度繰り返し[18][19]、ルーキーイヤーは一軍で25試合に登板して1勝0敗3ホールド・防御率3.27を記録。オフに80万円増となる推定年俸900万円で契約を更改した[20]。 2024年は春季キャンプを一軍でスタートし[21]、オープン戦最終戦まで一軍に帯同[22]。オープン戦では5試合に登板し、計11打者に対して1安打1四球2奪三振無失点を記録していたものの[23]、開幕直前に二軍合流となった[22]。4月12日に『NPB感染症特例』の代替指名選手として出場選手登録されたが[24]、同17日のオリックス戦で1/3回を投げて2失点を喫し、翌18日に登録抹消[25]。7月26日に再登録されたが[26]、8月3日の埼玉西武ライオンズ戦で1回3失点を喫し[27]、同5日に登録抹消[28]。その後の一軍再昇格は果たせず、この年は6試合の登板で0勝0敗1ホールド・防御率7.94という成績に終わり、オフに20万円減となる推定年俸880万円で契約を更改した[29]。 中日時代2024年12月9日に行われた現役ドラフトで中日ドラゴンズから指名され、移籍した[30]。 選手としての特徴高校時代はスリークォーターとサイドスローを織り交ぜる“二投流”であり[31]、大学進学後は斎藤雅樹を意識した[32]という独特なスリークォーター気味のサイドスローが特徴。 平均球速がストレートより速い高速シンカーが武器[33]。変化球はその他にスライダー・カットボール・カーブを操る[34]。最速はアマチュア時代に148km/h[35]、プロ入り後は151km/h[注 1]を計測している。 人物両親と兄の4人家族[37]。 名前の「茉央」は、両親が生まれてくる子供が女の子だったらどうしても付けたかった名前。結果的に男の子が誕生したものの、そのまま「茉央」と名付けられた[37]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
登場曲脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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