久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日[1] - 1977年(昭和52年)7月14日[1])は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。
人物
和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。
1953年に日韓会談で日本側首席代表を務めた[2]。その後在メキシコ特命全権大使、在南ベトナム特命全権大使等を務めた。
妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子[1]。
略歴
久保田発言
日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
著書
- 『最近のソ聯國内事情』皐月會, 1938
- 『メキシコ 歌集』一路叢書:短歌新聞社, 1957 ほか
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
関連項目
- 先代
- 武内龍次
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- 北海道連絡調整事務局長
- 1948年 - 1949年
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- 次代
- 林馨
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- 先代
- 新設
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- 日本国際問題研究所理事長
- 1962年 - 1965年
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- 次代
- 別府節弥
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全権公使(ワシントンD.C.駐在) | |
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全権公使(メキシコシティ駐在) | |
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全権大使(メキシコシティ駐在) | |
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カテゴリ |
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全権公使(メキシコシティ駐在) |
- 在メキシコ公使が兼轄1935-1941
- 堀義貴1935-1936
- 越田佐一郎1937-1940
- 三浦義秋1940-1941
- 国交断絶1941
- 国交再開1954
- 在メキシコ大使が兼轄1955-1964
- 久保田貫一郎1955-1958
- 千葉皓1958-1960
- 林馨1960-1964
- 大使館昇格1964
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全権大使(メキシコシティ駐在) |
- 在メキシコ大使が兼轄1964-1967
- 林馨1964-1965
- 石黒四郎1965-1967(在メキシコ大使としては引き続き1968年まで駐箚)
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名誉領事(グアテマラシティ駐在) | |
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全権大使(グアテマラシティ駐在) | |
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全権公使(メキシコシティ駐在) | |
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全権公使(サンサルバドル駐在) |
- 在エルサルバドル公使/大使が兼轄
- 林不二雄1960-1965
- 鈴木耕一1965-1967
- 昇格1967
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全権大使(サンサルバドル駐在) |
- 在エルサルバドル大使が兼轄
- 鈴木耕一1967-1970
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名誉総領事(テグシガルパ駐在) | |
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